でかい図式論に対して自分の見知ったものから個別のケースに基づいた反例を二三引っぱってきてなにか理性的なケリでもつけたような気持ちになる、という「対処法」に私もいつからかどっぷりと浸っていて、そういうとき中尾太一の「では、お前も《日常の差異》の側か?」という訴えが効いてくるように思える。ジャンル論に引きつけて言えば「こういう作品もありますよ、ああいう作品もありますよ、だから必ずしもそうではないですよ」と反例を悠長に挙げるだけでは、抵抗と呼ぶのにとても足りないもののことを中尾太一は疲れた声で言っている。「必ずしもそうではないですよ」以上の前のめりの抵抗をひとりひとりが各々の生の上で見せろよと中尾太一は言っていたと思う。「主題論」に「回収」しえぬ「微小」な「差異」を尊ぶことでたしかにあるところまではたえず細い抜け道を打つようにもして抵抗できるが、それでは押し通せない虐殺の時間がどうしてもやってくると思うし今もあると思うが、それにどんな態度で臨むんですか?と私の耳には聞こえていたと思う。


 またべつのひとが言っていた。このジャンルってだいたいこうだよね、という大づかみな話に、いやこんなのもあるしあんなのもあるから、と個別に具体的に反例を引いて抵抗することは正しいけど愛してるけど、どうしたってそれでは弱いんだよ、という。この、「それでは弱いんだよ」ということの意味を私はちゃんと聞きたいと思う。せめて実効性に食い込ませられなければ、言葉を長く費やした反論さえ自分の気をなだめるだけに終わってしまうに違いない。そしてまたべつの方向から言うと、あえて図式化をおそれないで言うことの強みもあるし、個別例を踏みにじる図式化を誰より憎しみしながらあえてそのような語りをとるべきところに至ったそれぞれのひとたちの心というのもある。抵抗するにしても「日常の差異」「個別例による反論」、要するに「必ずしもそうではないですよ」で押し通すには無理なところまで状況が追い詰められたらどうするのか?ということ。