怪物、メイフライ、化学繊維

 怪物と幽霊との間に無理に存在論的なヴァーサスをつくってみるなら、私はいつでも怪物の側に思慕をもつ。少なくとも気持ちの上では怪物の側にありたい、と思ってきた。「常軌を逸したものくるおしさ」であれ「透徹した触知」であれ、幽霊や幽霊性は人称や現実の問い直しの場面で装置としても理論立ての教材としても不断に使いまわされてきた筈だった……要するに「文学」と相性がよすぎるように私には思えたし、同じく文学に使いまわされるにしても切り立つような聡明さに向かう幽霊概念群とくらべ(個々の論者によって精緻化されてきたのもその理由だとしても)、怪物や怪物性の側には「手がつけられないほどの愚かさ」が残ってあるように私には感じられた。いろんな子がへんてこな能力を持ってて勝手に生きてる、ということの原初的なにぎやかさ=孤独と怪物は手を切れないでいるように私には感じられた。だからすきだ、というのでなく、どうにも惹かれたあと時間が経って見返してみるとそう気づかされたというだけの話だ。
 幽霊と違い、怪物は図鑑と相性がいい(これは確実に)。また怪物はグラフィック表現とも相性がいい(これはおそらく)。コレクション性やカタログ性などそのまま怪物の定義とも思えるほどだし、デザインと怪物とは同義語かとも思うほどだ。実際、「(バラエティあふれる)顔」「(バラエティあふれる)伝説や挿話」「(バラエティあふれる)能力」が求められれば求められるだけ怪物たちは返してくるだろう。この「バラエティ」なる一側面をめぐり、いやもっと露骨に言うならば「固有名詞はよい」と思えるかどうかをめぐり、思想上嫌悪する者と夢中で取りつかれる者とに分かれる。そして私は怪物=キャラクターというものの即物的なバラエティに「いかれて」しまっている人間、ひかえめに言うなら肩入れするのを遠慮しない人間のひとりの筈だと思う。


 フライフィッシングという釣りのジャンル、つづめて言えばフライというのに私はなぜか中学生の時期の大部分をつぎこんでいて、モダン(CDCが夢の素材として日本に紹介されだしていたころだ)にしろトラディショナルパターンにしろ、雑誌で気に入ったフライパターンを見るとこつこつ買い揃えたタイイングキットの前で自分で巻いてすらいたけれど、この今やすっかりやっていないフライに向かって、ここまで前置きしておいたような怪物への思慕に似たものが噴き出してもいる。自然公園の沼に来てウェストポーチに入れた携帯ボックスを開くともじゃもじゃしたフライが詰めこまれていて、いま思えばそれが私の小さな怪物図鑑でもあった。フライを巻くこと、タイイングがどんな行為かはたくさん動画がある筈だし、たとえば下の動画ではパラシュートの巻き方の解説がされてある。

youtu.be

 怪物のバラエティという意味ではルアーも競合的であった筈で、たしかになぜ自分がルアーでなくフライをやりだしたのか言うのはむつかしい。まわりの友人がルアー派ばかりだったから、というごく単純な反発心からかも知れない。ただ、この動画のような時間、自分の部屋にこもって針と糸と鳥たちの毛を使い、手を化学染料にまみれさせ動物臭くしながら擬似餌を編んでいくという野蛮な正座のたのしみは稀なものだった。釣具店のフライ用品コーナーに行けば判ると思うけれども、そこには極彩色に染色された「牛のしっぽ」「鹿の体毛ひと剥ぎ」がパックで吊られてあり、私がそれにどんなに熱中したかを説明することもまたむつかしい。


 理論的な部分で今も後ろ髪引かれるのは、フライが、魚の眼から見たそれと人間の眼から見たそれとの解消しえない亀裂を無理やり結び合わせようとした結果として、こういうデザインになった、というところだ。ニンフ、ミッヂ、ピューパなど水中にある程度沈めてインジケーターを頼りに使うフライも多い訳だけれど、今かいたような理論上の難点と魅力が最も集中するのは水面にフライをぷくっと浮かばせておくパターン(いわゆるドライフライ)にあったように私は思う。ここで水面はすぐさま「スクリーン」という見立てを提供し、だから水中の魚と陸上のこちらが互いに一枚のスクリーンを挟んで一個のフライという対象物を前に向かい合っているのだという想像図が、私に判りやすく認識論の観点から効いているのは否めないにせよ。
 フライ=毛鉤がどうしてこのようなデザインをしているのか?という疑問に対して、初心者にとられることが多かったのはおよそ次のような説明だったろう。たとえば、基本的なパターンのひとつであるエルクヘアカディス(http://www.dreamdriftflies.com/product_info.php?products_id=2721)を見てみる。これが「怪物」のように見えるのは人間の眼によってその細部を洗ってしまうからであって、これが水を通し、あるいは真上の日光の照りを通し、ほかならない魚の眼から通して見るとき、驚愕は消えるという訳だ。川に住む魚の眼はトビケラやユスリカ、その成虫なり幼虫なりを捕食しているけれども、その際には餌のシルエットを大まかにとらえるのであって、全体の陰影が合致しているならば人間にとって異様に思えるデザインも魚にはそうでなくなる……。
 私がフライをおぼえていたころ、こうした文脈で重要視されてきた筈だったのは「ファジー」という概念だった。リアルな模倣対象に対してフライを近づけすぎないことは欠点ではなく、ぼんやりしたシルエットがかえって広く利用可能な模倣対象の範囲をカバーするということだ。魚が対象を誤認する、ということをあてこむことでフライのデザインは少なくともその基礎的な理論を成り立たせている。リアリズムの陥穽をついたこうした「誤認」の実態を生物学的な知見とつきあわせることはできないけれど、それはここでは重要ではない。魚の眼と人間の眼、地上と水中という同時に重ね見るには調停の困難な視点が、重要なのはあくまで「無理に」よりあわされ、あまつさえ実際に機能してしまうのがフライという存在であって、この地点で今日日記に前置きしていたような怪物性と幽霊性との境界がひそかに融けだし、私はなにかをあきらめることを迫られる。