ラドヴァン・イヴシック『あの日々のすべてを想い起こせ アンドレ・ブルトン最後の夏』

 「素晴らしい。だが同意しない」(安川奈緒)という言葉はただでは言えない。この言葉が寄せられたもともとの文脈がそうだ……し、「傑作だが、重大な問題点がある」とか「ものすごく好きだけどここはどうしても受けつけない」という気分で言いえるものをこえている、「素晴らしい。だが同意しない」というのは……だろう。自分のこれまでの一切の信仰が破産してもその手を取るかどうかを否応なく迫るようなものでなくては、その手を取るということは共に駆け落ちするため相手と手を繋ぐためだけに切り落とした手一個を残してこれまでの自分を納屋に投げ捨てていくことでもある暴力をまとっているものでなくては、そんな言葉はとても口に出せるものではない……なのだろう。
 だから私はラドヴァン・イヴシック『あの日々のすべてを想い起こせ アンドレ・ブルトン最後の夏』という一冊、私は信じるけれど「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」(小野茂樹)をきっと誰にも反射的に思い出させる一冊を読んでも、そしてこの本が、死の手前にいたアンドレ・ブルトンの最期を離れずそばで見続けるという状況がすでに否応なくヒロイックに、ヒロイックに傾いていかせる叙述をイヴシックに無念にも握らせてしまうのだとしても、「素晴らしい。だが同意しない」という言葉を向けようとは思えないし、とても向けられない。結局私は撃たれなかったということ。そしてイヴシックがカフェでの集まりへ思いを飛ばすその美しい叙述、やや外向きのポーズを取ってかかれたようなページに乗ることもけしてできないけれど、けして、できないけれど、けれど、ともうあと少し続けてけれど……で表すほかないような気持ちを私も指でなぞってみたくなる。

 私は黄昏どきに《カフェ》に行くのが好きだ。時々、あの会合が遠い昔のアーサー王伝説の円卓に映るような印象、もしくは幻覚に捕らわれることがある。まるで物事の流れを拒否するかのように、昔からずっと幾人かの人々が、この世の夜に集まって、そこにいるかのようだ。
ラドヴァン・イヴシック、松本完治訳『あの日々のすべてを想い起こせ アンドレ・ブルトン最後の夏』p.50、エディション・イレーヌ、2016年)

 ところでこの本のなかで「悪い意味で」圧巻なのは、ブルトンが自分の死の予言者となってしまうところの筈だ。正確には、自分の死のときさえ見事に予言してみせた類まれなる者にブルトンを仕立てあげようとする、まわりの「精神的遺族」たちの筈だ。ブルトンは自分の命数が残り少ないことを感じ、住んでいたサン=シル=ラポピーでちょうど終わりかけていた村役場の解体工事とおのれを重ね合わせたという。「あの村役場がすっかり解体されたとき、私もこの世から……」。それを間近で聞いた親しい者が動揺するのはしかたないと思う。トワイヤンもイヴシックも、しかたないと思う。そこでプッとふきだし、ブルトンに笑いかけてゆける誰かがいたらね……と私は無責任にも思う。けれど、ブルトンの死から数十年後の、ひとりの日本の読み手まで「自分の死を見事予言さえした見者ブルトン」像をいまさら補強してみせる必要はまったくない筈だ。私は、詩人を予言者に仕立てあげようとする者が嫌だ。詩人の言葉を「ほら見たことか、今こそあいつの言った通りだ!」と胸を張るためにコレクションでもしているようなひとたちが嫌だ。「真の詩人は未来を思い出し、過去を予言する」とかいう誰かが得意げに言った口当たりのいい警句があるという。くだらなさすぎないか? だからなんなんだ? いつか自分のかいたものや言ったことが、またいつの日にか自分と思いもよらない関係を取り結ぶことの可能性を、そんなしたり顔の過去・未来まで引き下げていいのだろうか。私は嫌だ。「ブルトンはあの村役場が取り払われたら自分も死ぬだろうと言いました。かれは死にました。そのとき村役場もちょうど、消えていました。すごい、ブルトンはさいごに自分の死を予言したのです」……って? ??? なに……? なにが言いたいのか判らない。しかし翻訳者の松本完治はブルトンに対し、まさに予言者の称号を贈っている。私は嫌だ。
 『換気口』(アニー・ル・ブラン)でもそうだったように、私には松本完治の解題は率直に言って読むにたえない。とにかくその「潔癖で高貴な人間」の「潔癖」と「高貴」のイデアにひたすら恐れ入ってしまっているような文章、崇拝に崇拝を重ねる文章には頭痛がしてくる(アニー・ル・ブラン自身にしても、でもあなたは「広告」から胸打たれた瞬間を忘れすぎではないですか? あなたが唾棄する現代の「広告」からささやかな魔術的瞬間を誰にも知れないところで受け取り始めているひとりひとりのことをさ?と言いたい)。しかもこういったひとが国内では未訳のシュルレアリストの翻訳を続々と手がけ、出版するという貴重な仕事を情熱的にしてくれているということを、いったいどう受け止めればいいか判らない……。とにかくブルトンを「偉大な詩人であり、生涯誤ることがない偉大な人間であった」と言わんばかりのこうした文章をもし最初に読まされていたら、私はシュルレアリスムになにも興味をもったりしなかっただろうと思う。私とそれまでなんにも通じ合うものがなかった筈のシュルレアリスムに、うかうかと飛び込ませてくれたのは、ここで小馬鹿にされているような現代の「シュルレアリスム研究者」たちのわくわくするような文の数々だったのには違いない。


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(Peter Dabac、1981年撮影。http://weirdfictionreview.com/2014/06/theater-as-plague/

 私には、イヴシックのこの写真一葉が大切です。つい今、振り向いた……振り向き始めた……そこで止まり、終わっているようなこの写真のイヴシックはどこか松平修文のようだし……というのは森に隠れ住んでいたイヴシックの像も手助けしているのは疑えないにしても。