声にはならない言葉(私の心霊写真に起こること)

 自分にとっての「よすが」のひとつは、間違いなく、心霊写真のムックで眼にした「姉さん」という文字が浮かび上がった茨城県にあるアパートの写真だったと思う。私は小学生で、90年代のカラー写真は薄汚かった……。その写真も薄汚かった。話自体は有名なもののようで、ネットでも検証サイトがいくらでもでてくる。写真もそこで眺めることができるだろう。前述した通り、「姉さん写真」は心霊写真のムックに掲載されていた。ただし、「姉さん」という文字は罅や染みで滴るように構成されており、要するに四六時中そこのアパートの壁に浮かんでいたものなので、いつでも現地に行けば見れるものだったろう。だから、「その場では見えず、現像後に初めて明らかになるもの。偶然映り込んでしまったもの」という心霊写真の主要な定義のひとつには、これはあたらない対象ではあるかも知れない。
 この「姉さん写真」は、背景の伝聞とセットになって取り扱われている。かつて男の子がそのアパートの前で交通事故に遭ってしまった際、「姉さん!」という悲鳴を発して亡くなったのだという。男の子には姉がいて、その子は最後に姉を呼んだのだ、と。すると、アパートの壁に浮かぶ「姉さん」とは、亡くなってしまったその男の子の声に原因が求められることになるし、事実そう言われている。写真を見返してみよう。おそらくなにも知らないまま「姉さん写真」を見て、ああこのところは「姉さん」とかいてあるように見えるね、と判断できるひとはそう多くないだろう。だから多くの心霊写真がそうであるように、「姉さん写真」も必ず「実は男の子が昔……」というフレーバーテキスト、あるいは「この写真の、まさにこの部分は『姉さん』と読める」というような編集部からのインストラクションとセットで流通をえてきただろう。「ひとは自分の見たいものだけを~」といった退屈な事情通たちのコメントが近寄ってくるのもまさにここである訳だけれど、そういった萎れた声々からはもう少しだけ隔たっていてみよう。私の心霊写真と自分の耳とをふさいで守ることにしよう。
 写真を一目見たとき、私になによりショックだったのは、「姉さん」という文字からなんの呼びかけも感じ取ることができないということだった。たしかに、言葉であらためて説かれてみれば自分のほうが鈍いように思えてくる。「姉さん」と呼びかけながら亡くなった男の子がいて、そのやりきれぬ思念が刻まれてアパートの壁に文字が浮かんだのだ、という懇切な説明はしかし私の耳から早々に脱落した……。どちらかといえば「姉さん」という文字から、そう呼びかけた者の側を想定する、という感性に対してひどい違和感をおぼえるほど、この「姉さん」という文字は「自立」し「自律」していた。それはこの文字が一目で誰の眼にも「姉さん」と読み取れるから、ということではまったくない(先にもかいたように、この写真が少なくとも心霊写真として受けとめられるためには、やはり画像とテキストが対になった場所で見られなければならないだろう)。
 そうではなくて、端的に、この文字がそのまま「姉さん」の現れなのであって、それを実は誰が言ったかというような上階の存在など最初から弾きだされているほど、強い現前性を私に持つということ。罅と染みで構成されたこの「姉さん」という文字は、自分自身をしか指し示そうとは、表そうとはしていないように思える。私が取り違え、今も取り違え続けていることでこの写真に起きてしまう事態とはたぶん、本来は肉親からの呼びかけとしてたえずその遺言のチャンネルを開かせる筈の「姉さん」という「ストーリー」を、いやこれは当の「姉さん」が自分をかたどった結果の瞬間としての「姉さん」という言葉だと、指し示すものと指示されるものとが一致してしまっている言葉なのだとみなしてしまう感触がつねに破壊しに来る「事件」であり、しかも今もそうとしか感じられないという一事の顛末だろう。「姉さん」という文字を見る。すると、そこにいるのはほかでもない。