コモンと言葉(4)──毒/命、生、命

 それでもアニー・ル・ブランは耳をひらくべき言葉を発してくれている。「ご覧あれ、(……)主体が存在しないと胸をはるあのポエジーを」。実際そうだろう、胸をはって偉そうに言って済ませられることではない筈なのに。そして「主体とは一枚岩ではなく、文化的な産物であり環境的な構築物であり、交通と封鎖を繰り返すアンチ・表象・ダイアグラムであり、他者に、周囲に、独自に、構成され、後付けされ、掘り出され、やり直され、蒸し返され、見捨てられるもの、総じて可塑性をいつでも受け入れる、という条件のもとで可塑性に対して歯をむき出しに抗うもの」とうとう、と主体概念の単一性を撃ち落とすべく、ともかくも再検討するために言われてきたことが、どうして「主体など存在しない」と端的に言うことに力を与えると思えるのか判らない。ネット方言を借りれば「よかった……おっさんのおもちゃにされてきた主体なんて子は存在しなかったんや……」か? 「主体は単一ではない」をまさか「主体は存在しない」に聞き違えて? 「不確定性」と「不可能性」とがどうしてか混同されがちなように?(クワインのケース)
 居直ることが問題ではますますない以上、私はせめて今、「Queen Mary's Script」(gabicho、2013年)というゲームの最後を記憶になぞっていっていく。自分の家のなかをただ歩く。するとプレイヤーキャラクターのHPはどんどん減っていく。ダメージを受けている訳だ、ただ歩くことで。こうした状態に陥るきっかけはあって、それは「自分の部屋の外にいったんでると」という条件だった筈だ。といって家のなかのマップタイル自体に毒の沼的な意匠が施されているようには見えなかった。ここまであえてふれてこなかったゲーム内のおはなしの展開とその予想しうる帰結を思えば、どうして歩くだけでダメージを受けなくてはいけないのか、という理由はなんとなく判るものだし、制作者の導きも感じ取れたとは思うけれど、やはり歩くとダメージを受ける(HPが減る)ということの意味がRPGの作法の記憶連鎖を通じてのしかかってくる。
 歩行にダメージが伴う、ということの意味状況をひとは多くふたつに分類するだろうと思う。つまり特定のマップタイルがダメージ発生源であるケース(「毒の沼」の類だ)。それから、歩行者自身がスリップダメージやなんらかの怪我を抱えていると想定できるケース。まわりがあやういからダメージをもらうのか、自分があやういからどこを歩いてもダメージをもらうのか。環境の難か、主体の難か。「Queen Mary's Script」でプレイヤーキャラクターを操作し、減り続けるHPという情景を見ながら私が漠然とにも感じていたのは、でもこのダメージはなんなのか、といったことだったろう。先にかいたように、その理由はおはなしから十分汲み取ることはでき、「でも、それにしても」このダメージはなんなのか、と私は言いたかったろう。変わりないマップタイルも、ステータス異常をこうむっていないプレイヤーキャラの様子も、その「でも」に要領よく返事などしてくれない。慣習は強力で、歩くことでHPが減ることの意味を即座に用意してくれる。いずれにせよ、そういうことなんだな、と納得もでき、またよく判らなくてもそれはそれとして忘れたり、とりあえず先に進んだり、判らないことを丸ごと受け入れつつプレイする。そして……致死性であるのは環境か主体かをこうと断言できない場所のひそかなありかは、まだそこで眠りについている。