コモンと言葉(5)──気持ちの守り手たち

 「自分でプレイしたことないんですけどゲームの実況動画で見てます! あのゲームの雰囲気めちゃくちゃすき!」と言うことさえゆるされない世界とは実際、窮屈なものに違いない。「やったことないけどだいすき!」と言える気持ちを他人が値踏みできる筈もない。こう切り出すと、「そうだよね、原作知らなくてもすきでいいと思う」と案外多くのひとが頷いてくれるかも知れない。しかし同時に、どうだろうか。そうした原作知らずのファンの言動を表ではこころよく許容しておきながら(ところで「許容」とは何様のつもりだろうか)、「でもいつかはやっぱり原作をプレイして欲しい」と思いたくなるお節介な気持ちもどこかにないだろうか。私には心当たりがあると思う。この「できれば原作も……」という気持ちを押し殺すことが問題なのではない。ただ、そんな言葉では届かない気持ちがあって、それをひとも私もすぐないがしろにするというだけのことだ(だろ?)。「ほんとうにそのゲームに興味を持ったのなら原作にも手を出す筈」とたしかに言いたいだろう古参の誠実さでは、「プレイしたことがないし、その予定さえないけど、とにかくすきになってしまった。なんにも知らないキャラだけどその子の絵を描いたり眺めたりしてる」と今すぐ口にしてしまえるひとたちの気持ちの正直さには届きはしない。どちらの肩を持っているかという話ではない。単にそれでは届かないだろう、と伝えているだけだ。自分たちではマイナー風を吹かしているくせに、あるジャンル内ではすでに十分権威化しきった「誠実さ」ではすくいとれない、ひとりひとりの気持ちの「正直さ」があるだろう、と言ってみるばかりだ。少しばかりアカデミックなやり口や「○○を考える前に用意しておきたい10の方法」をかじって鼻穴をふくらませている小利口な者たちは、こうした気持ちの機微をすぐ忘れてしまう。「それはほんとうの愛ではないと思う」「そうですね、プレイしなくてもいいけど、最低限自分でゲームを買ってお金を落としてあげないと、ファンというには(……)」、とかなんとか。


 私自身のことを言えば「Dead by Daylight」(Behaviour Interactive、2016年)のケイト・デンソンのプロフィールを何度も読み返しているところだ。実況動画では飽きるほど見てきて、そのくせ自分自身ではプレイしたことがなく、これからもする予定がないこのゲームのうちに、(まさかチェルシー・ウルフの出番ではないにせよ)フォークギタリストのサバイバーがいて、「Dance with Me」という能力名があること、それで私には十分だ。あるいはべつの能力「Windows Of Opportunity」に添付されたキャラクターの歌詞から「貴方の好機の窓を全開にして」という一節を拾い出せれば、十分だ。

www65.atwiki.jp

 また、「Pyre」(Supergiant Games、2017年。https://store.steampowered.com/app/462770/Pyre/)のカスタマーレビューから次のような一文:「その世界の設定資料集が聖書として崇められる設定はちょっと斬新だと思う」を拾い出して。私でないべつの誰かは、「ベヨネッタ」(セガ、2009年)の四丁組みの銃が「スカボロウフェア」という名前をもつことにときめきを感じたかも知れない。「ベヨネッタ」をプレイすることなく、ただ「スカボロウフェア」という遠い曲名がそこにくっきりと引用されてあることに救われた思いでいるかも知れない。たとえつかのまのことであれ、そういった出会いがあり、そのときゲームがそのひとのなかにあるしかたで生きていないと誰に言えるだろう。


 最近ではwikipediaではないwikiサービスを利用して、ゲームの攻略サイトが公開されていたりする。そういった華々しく目立ちやすいページのありかたをよそに、同じwikiサービスを、個人制作のゲームの世界観をつぶさにかきこむために利用しているひとたちもいる。いや、実際にビデオゲームをつくることは問題とせず、あくまでRPGという体裁でえがかれた物語の設定集として公開されているものもある。そこには膨大なキャラクターのプロフィールがあり、口癖や種族、生い立ち、すきなこと嫌いなことがかきこまれている。ひとはときに肯定的に、ときに半笑いで、そういったページに育まれる想像力のありかたを「妄想」と呼んでもいるだろう。ここでそういったことについてなにか言いたい訳ではない(それに私自身、ひそかに愛し、いつも胸を打たれている「妄想」のページを持っている)。
 私が思うのは「守られている」ということの強く儚い気遣いのことだ。すきなものだからこそ広めない、という現代ではあまり優遇もされないであろう守り方のことだ。たとえば上記したようなwikiには「身内用につくったページです」と最初に断りが入っていることがある。一方で非公開アカウントにされている訳でなく、現に私のような者でも読めてしまっている……。こうしたことの意味とはすなわち、みだりにほかのひとびとには読ませまいとする不可視の「守り手」の気遣いにこのページはよっている、という以外のことではありえない。私の大切なこのページを容易には人目にふれさせないようにくちをつぐんでおこう……という薄くしずかな結界によって守られているアカウントが確実にある。こう考えてしまうことが根拠のない忖度だというなら、私は根拠なく忖度することを選びたいと思う。「そんなの非公開にすればいいじゃないか。そうしてないってことは誰に広められてもいいってことでしょ?」という露出狂じみた手からできるだけ遠ざけられるように、このページは今まで残ってきたとしか思えない。そんな場所を一度でも見たことがあるならおそらく判ってもらえるだろう。
 フリーゲームをあさっていても、こういったささやかな結界の張りを感じさせられる場所がしばしばある(もちろん私自身のことではないけれど)。作品は誰に対しても平等に開かれているもの、という信念などかなぐり捨てなければまず眼に交わすことさえできない、そんな場所でひそやかに大切なものは手渡されたり、きれいに忘れられたりしているだろう。そこでゲームは互いにかきこめるノートブックのようかも知れないし、そうした営為をお節介にもとがめて外から言われる難癖(「創作者とは~」「身内でやってるだけでは~」……)は、すべてとるにたらない紙切れだろう。