コモンと言葉(6)──イプシロンのまなこ

 どうしてもすきになってしまったものがある。だから、それをすきだと言おうとする(なにかがすきだという気持ちからいつでも始めるべきなので)。すると、「どうしてすきになったのか教えてやろうか?」という声につかまる。
 この声は、「どうしてもすきだ」というひとつの主体の気持ちを、文化的・環境的・状況的な多様な条件によって複合的に構成されたものだと教える。この声は、「すきだ」という気持ちの直接性を迂回して、「すきだ、ということにさせているもろもろの原因」を検証していくだろう。「あなたがそれをすきだと感じたのには実はこういう原因がある……」「あなたは主体的にそれをすきだと言い、思っているようだが、それはあなた自身ではないものによって言わせられ、思わせられているのにすぎない。あなたにそれをすきだと感じさせるようにしている構造的な要因がある……」。こうした声はやや戯画的に並べてみたものだけれど、「すきだと感じる」「すきだと思う」という直感に対し、「すきだと感じさせられている」「すきだと思わせられている」とうとうの受動の層へと気持ちの担い手を導くだろう。
 「すきだ、とお前はつねにすでに何者かによって言わせられている」と「私のどうしてもすきだという気持ちは私に対して歪んではいない」。ごく単純化して、こうした牽制関係が構造主義現象学とのせめぎ合いの歴史*1として見返されるとき、どちらか片方の側につくのとはべつの道があることをシュルレアリスム研究は教えてくれる。「意識に直接現れるもの」を抱きとめようとする現象学と、「直接的なものをいつのまにか規定しているかもしれない間接的なもの」を深く掘り下げようとする構造主義との間で、どちらかを選ぶことなくあくまで揺れ続けることを選んだのがシュルレアリスムなのだと鈴木雅雄はかきだしていた*2。これとは文脈も視点も異なりつつ、やはり現象学構造主義とを背理する二者択一の理論としてではなく、互いに相補的なものとして受けとめようとしていた竹田青嗣のようなひともいる*3現象学からつかみだされた「意識に直接現れるもの」についてのエッセンスは、かつてかかれた『意味とエロス』では「告げ知らせる、告げ知らされる」というありかたに落とし込まれていた。「人間は、〈欲望〉の対象を『外部』に見出すため、たとえば『美しいもの』が自分を引きつける原因だと考える。だがじつは、対象はただ、わたしたちの実存的基底としての〈欲望〉のかたちを告げ知らせるものなのである。人間はつねにすでに〈欲望〉として存在する」(『意味とエロス』*4)。知覚や情動、そして欲望は、ひとりの人間にあってその意識にそれと告げ知らされるだけだ、というとき、この「告げ知らされる」には「自分の好き勝手にできない」という含意が込められている。自分の意識に直接現れながらも思い通りには動かせないもの。私の言い方に連れてくるならそれが、「どうしてもすきだ(……)」という思いには違いない。
 どうしても「これ」をすきになってしまう、という気持ちの出所をいっさい考慮しないならば、まさに自分をそこまで導いてくれた不可視の同伴者たちを傷つけてしまう。他方で、自分が「これ」をすきなことにはすべて裏の意味がある、と考えてばかりでは今それに眼を奪われてしまったということのどうしようもない明証性(エトムント・フッサール)を何度でも取り逃がしてしまうのに違いない。


 その作品の成り立たせ方にはけして全面的に同意しえないにもかかわらず、最後には「どうしてもすきだ」という言葉を自分の舌から引き抜くはめになる。そういうゲームはアンディーメンテにもある。ステッパーズ・ストップにもある。川崎部(モスー)の作品群にはそんな瞬間がいつでも待ち受けているし、そして「病名・チュパカブラシンドロームサエジマ」(2013年)、「Wish Disproportionate」(2014年)、「キャンディリミット」(2015年)と連投を続けてきたsunoriという書き手*5に対しては、とりわけそうだ。
 キャラクターがなにか言おうとする前に、その子を取り巻くゲームシステムや世界像設定のほうが大きな声で物を言う、という構図が必ずしも悪い訳ではないのだろう。それによってかえって明らかになる灯りのような小さな声も、あるのだろう。ただし、経験は、あまり首を縦にはふってくれない。しばしば私自身かいてきたことだけれど、"キン肉マンGo Fight!"の「私は(ドジで)強い(つもり)」という歌詞を示し、「ひとが自分のことを語り出そうとするのをさえぎってネガティヴな代弁をとるのはひどいのではないか」というようなことを指摘してくれた現代詩人がいた。その通りだと思う。そして、言ってしまえばそういった事態はゲームにかぎらずいろいろなところにありふれている。キャラクターが自発的になにか言おうとするのをさえぎってまで、大きな作品の大きな悪趣味を愉しむことを優先させてみせるような作品や、克服という登場人物のドラマのために苦難のイベントを用意する手際だけが洗練されてみえるような作品に、私はもうあまりつきあっていたいと思わない。そう思っていたし、だから「キャンディリミット」の展開によくないものを感じたとき、急ぎ足でああまたそういうのか、と感想をまとめてしまいそうになったのもたしかだった。
 考えが変わったのはどこだったろう。「キャンディリミット」がただ悪趣味を愉しんでいる訳ではないと思えたのは。それはおそらく、お菓子づくりの「画面」が本気であることに気づいたときからだ。「あとがき」の最初に述べられていたことは制作者の韜晦でもなんでもないことが、今は受け入れられる。シナリオではなくやはり、画面という水準へと何度でも戻らなくてはいけない。BGMやフォント選びの審美眼ももちろん言わなくてはいけない。しかしそれより以上に、ボタンやお菓子のイラスト、キャラクターの絵、「手書き」というありかたから強いものがいつでもやってくる。このビデオゲームにおける「手書き」という言葉にいっさいの理論的根拠を用意などしていないからゆえに、私はここで思いつきを素直にあてどなくかいていけるのだとしても。


(sunori「キャンディリミット」、2015年)

 キャンディは驚くべきことにお菓子屋さんを開店するにあたって、自分がこれまで「あめ」しか食べたことがないことを暴露する。それでどうやってやっていこうというのか、友達のパンナコッタでなくても呆れてしまうかも知れない。クッキーやパンナコッタといったお菓子を食べたことすら一度もないのに、思いついてお菓子屋さんをすでに始めてしまう妖精キャンディの絵と思想にしかし、どれほど励まされたろうか。このいきなりお菓子屋さんを始めてしまえる無謀さの高みに比べれば、ほかはすべて(いかに誠実なものであっても)余談のようなものではないのか、とさえ思われてしまうほどだ。
 「思想」は「実生活」とは無縁のものだ、と足早に過ぎるひとにつねに反して、なにかいいことを始めようとするひとの生はそれ自体思想の筈だった。キャラクターはすでに生をもってしまうからしかたはないけれど、始まりのキャンディのそんな思想には、裏づけというものを求めないでいいのだと思う。このキャンディの発端のまぶしさばかりは、どのようなゲームシステムも奪いえないものだ。「病名・チュパカブラシンドロームサエジマ」や「Wish Disproportionate」といった過去のsunori作品のうちにも、ひとを無闇に貶めない良質なユーモアとともに、こうした奪いえないまぶしさをたしかめることができるだろう。



(川崎部「SCE_2」、2013-2016年)

 ところで先にかいておいたように、手書き/手描きという言葉にここではどんな根拠も用意していない。これはひとつのマジックワードでさえない、いったいなにを言いたいのか自分にも不鮮明きわまる言葉になってしまっている。にもかかわらず、普段、私自身「手書き度の強い画面」といった感想を思わず持つことがある。極端な話、同じクリスタを使用して同じように制作されたキャラクター絵でも、一方は手書きっぽく、他方はそう感じないということもある。さまざまな意味での「荒さ」の問題、制作方法の問題、趣味性、または図像的な文脈の問題、画面内での配置の問題……と「手書き」という言葉を思わず呼び寄せてしまう原因は無数にある筈であるし、それらを点検していく時間がしかし残念ながら今はない……。
 上に引いた画像は「SCE_2」というゲームのなかでも私が偏愛している箇所のひとつであって、たとえばこういう画面のありかたに対しても「手書き」という思いはついもれてしまうだろう。でも、どうしてだろうか。たとえばこの画面にある文字がそれこそペイントソフトかなにかを利用して、ツールはどうあれ、手でかかれた画像には違いない、という印象からだろうか。いや、キャラクターイラストやオブジェといったものも同じように手でかかれた、しかも特有の「ラフさ」(これこそマジックワードだ)を強く残した質感だからそう感じるのだろうか。私が思うに、そればかりではなく、ゲーム画面をひとつのノートブックと見る想像力に「手書き」という言葉は生を多く享けているからだと思えてならない。画像のばらまき。配置。眺めさせるための配慮。総じて、この画面はついさっき思い描かれ、そしてかきあげられたというみずみずしいニュアンスをいつまでも与えられるもの……と。もちろんこう言ってみても、なにもたしかにはならない。それにしてもアンディーメンテステッパーズ・ストップ、川崎部やsunori、めいどいんるーむといったゲームの書き手たちが差し出してくれる(あえて言えば)手書き度の強い作品には、そうしたみずみずしさがあふれているように思う。ときにそれは、シナリオや台詞を読ませようとする制作者の思念をこえているほどに。



(原水「Sky[Rain]」、2016年)

 そういったなか、「Sky[Rain]」「Sky[]」という美しいゲームがあることを思う。ほどきがたい気持ちのゆくえに「画面として」連れ添った、恋愛ゲームの連作。ひっそりと立ち上がる縦長のウィンドウ。女の子たちには姿がある。ただ、その現れ方は私に衝撃的だったと思う。このようなキャラクターイラストは直接画面にかきつけられた訳ではありえない。でも、この絵の線は私にそう見るよう了解を求める。今も。「あなたはまた消えていた。まだ現れたこともないのに」(アラゴン*6)。どうしても、という声音を取り落さないようにまだ、苦労していくだけの眼を閉じておこう。

*1:こうして図式化してしまうとやはり、決定論をめぐる自由意志の古典的なふたつのバージョン、「選択可能性」と「行為者性」という牽制関係もここで等閑視しえないものとしてからんでくるのかも知れない。

*2:鈴木雅雄「抵抗する『フィギュール』」、『思想』2012年第10号、岩波書店、2012年

*3:竹田青嗣「エロス的幻想としての人間」、ジークムント・フロイト著、中山元訳『自我論集』、ちくま学芸文庫筑摩書房、1996年

*4:1986年という時代の気負いをこの引用文も引きずっている、それをみとめつつ……/竹田青嗣『意味とエロス』p.130、ちくま学芸文庫筑摩書房、1993年

*5:「みずのみば」http://mizunomiba.sakura.ne.jp/index.html

*6:ルイ・アラゴン著、江原順訳「イレーヌのコン」p.108、『イレーヌのコン 夢の波』、現代思潮社、1977年