伝記を読む限りでは、ドゥルーズは家族持ち、異性愛者の家族持ちです。ガタリにはそれなりにいろいろあったようですが、これも伝記を読む限りでは、普通の異性愛者の範囲におさまっています。精神分析的に見るなら、二人とも、オイディプス・コンプレックスを通常の仕方で解決して成長したわけです。フランスでは、ドゥルーズには同性愛者的なところもあったと、一体誰に向かって言い訳しているのか、それでもって言い訳したことになるのか定かではありませんが、そう書いている人もいますが、それを読む限り、ホモ・ソーシャルなところもあったというだけの男にありがちな普通の話です。
小泉義之ドゥルーズと狂気』p.154、河出ブックス、河出書房新社、2014年)

 「本棚の前で恥ずかしい勃起を『明かしえぬ共同体』かなんかで隠しながら」というような詩行、それ自体は「上手い」、含み笑いの技術をかきこんだ詩行が中尾太一にあったのを思い出したのは、今日、机の横の段ボールで組んだ本棚の奥に『非-知』(バタイユ)を見つけてあたりをつけたつもりで引き抜くと隣の『明かしえぬ共同体』(ブランショ)が手ににぎられていた……という赤面するような出来事があったからという事情がこちらにあったからだけれど、中尾太一の詩のその絶句するほど「男の子、男の子」な意識の質が息苦しくてたまらなくなることは、私自身長く敬愛してきたひとの詩であるゆえに正直に言わなくてはいけない(しかしここでさらに言おうとして「オトコノコ」というカタカナ表記をとってしまえば、たちまち「成熟」の側から嘲弄のための嘲弄をいっとき愉しんだあの自称社会学論者たちのゴミと並べるべきでない肩を並べてしまうことになるだろう)。その息苦しさの源泉が、中尾太一が、この地上にそのようである自分を懸命にさらした証であると私に伝わったがゆえに。こうしたことは詩人の弱点などではないのだから、すなわち「推敲」したり「よく言葉を練ったり」してどうこうしうるものではそもそもないのだから、純粋に立場や……人間の問題だろう。また:それに:だからこそ忘れてもいられない、これも正式な出典を思い出せない一節、「(自分が? 僕は?)性転換してまで」という、とくに性転換という具体的な地上の用語のダイレクトを選び、性転換を望む者の輪郭つまりどうしようもなく濃密な男の子主体を通してかきのこしたことも。