寄り道のない名前

 先日ぽんぽことピーナッツくんの24時間生配信企画「ぽんぽこ24 リターンズ」が二度目の開催を無事終えた。その午前中、妹と兄ののんびりタイム中にふたりは「ナンジャモンジャ」というカードゲームをプレイしている。カードを一枚づつめくり、そこに描かれてあるキャラクターに即興で名前をつけていくこのゲームの二戦目でぽんぽこは、「なぜかずっと見つめてくる子」という名前を発明している。

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 ぽんぽこの名づけに対し、兄ぽこは「なにその~…………名前っていうか………」とここで疑念を発しかけている。私が思うに、「なぜかずっと見つめてくる子」というのはキャラクターの命名に至るための人物特性をメモしたスプリングボードであって、普通ひとはそのメモをヒントとして正式な命名を準備するのではないだろうか(「この子はなんかずっと見つめてる感じだから○○って名前にしよう」といった風に)。もちろん小説を初めとするキャラクターの命名のテクニカルだったりアバンギャルドだったりする技法史をかえりみれば、ぽんぽこの名づけの短絡にも異様なものなどなにもない訳だけれど、兄ぽこのひかえめな疑念と合わせてみるとき、そしてその後何度も登場する同じ子への対応を思い返すとき*1、なにか名づけをめぐる新鮮な感触を教えられる思いがする。
 ゲームの一戦目では同じくぽんぽこによって「でか耳水泡(すいほう)」と名づけられたこの子の名前は、生誕の場において寄り道を経ることがない。「なぜかずっと見つめてくる子」は来たるべき命名のためのメモでもスプリングボードでもなく、こうして直接名前になることを許可されている。

 「名付け親がけっこうこれ強いんだよね」(ぽんぽこ)。しかし裏腹に、ぽんぽこが気まぐれにつけた名前を兄ぽこはしっかりと拾っている。また、その逆にぽんぽこがよく当てる場合もある。ルール上、即興的に名づけたものをこそ互いに長く記憶しなければならず、次の瞬間には忘れ去ってかまわない気まぐれさとどうでもいいようなことこそ保存しておきたい記憶の執拗さという、性質の反する綱渡りを要求するこのゲームの美点はこのふたりのプレイからもまぎれなく立ち上っている。兄ぽこが名づけた「トンガリ靴ボーイ」を即答してこの子の名前が気に入ったわと言いつつ、「ワラシベ興業」のあと再び顔を見せた「トンガリ靴ボーイ」を兄ぽこにとられ、「早っや…! 名付け親つっよ!」と感嘆するぽんぽこは、まるで今さっき自分が即答できたことさえもう忘れてしまっているかのようだ。こうしたぽんぽこの忘却の豊かさは、自分が名付け親となった「スリーピングスーモ」を兄ぽこにとられたぽんぽこの口から、ついに「『スリーピングスーモ』さらっと出てくんのすごいわ」と言わせる訳だった。
 コメント欄をうかうかと覗き見、「野沢雅子」の呪縛を滑稽なほど受け続ける兄ぽこをよそに、ぽんぽこは「機嫌のいい大阪のおばちゃん」を機嫌よく当て続けるだろう。「野沢雅子」も「柴田理恵」もきれいさっぱりと知らないまま豊かに笑っていられるぽんぽこにおいて、忘却からふるまわれる笑顔は、無知をやましく思うよう誘う外からの呪いに、少なくともこの瞬間は大勝ちをおさめている。名前をつけ、自分ですぐ忘れかけ、次のゲームでまたつけ直し、今度は以前の名前に足をすくわれる命名の遊戯を通して、美少女を発見する美少女(http://kyollect.hatenablog.com/entry/2018/05/04/170855)というぽんぽこ像をこうして私も自分のうちで訂正し、読み返し、こんな風に忘却ができないことの負けを甘く感じてしまうだろう。

*1:「これなんか(自分で)言ってたなあ…じっと見つめてる子。なぜかじっと見つめてくる子だ!」(二度目に「なぜかずっと見つめてくる子」が出てきたときのぽんぽこの言葉)、「なぜかじっとこっち見つめてるくん」(同じく三度目)