心霊研究(自分でも信じられないものを語るには)

 長尾天さんの論文はエクトプラズムとかウスペンスキーのような同時代の「キワモノ」「オカルト」とシュルレアリスムとを思い切ってででん!と同じ土台に載せてしまう文にいいものがあると思う。というか私がすきです。

・「ロベルト・マッタとP.D.ウスペンスキー -四次元における時間の空間化をめぐって-」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005983747/
・「未知の物体──イヴ・タンギーとエクトプラズム」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120002909692

 今に始まったことではないけれど「幽霊の残した証拠」というものに心奪われる*1。私にはたぶん単に幽霊だけではだめで、なにかしら手でさわれ、つかめ、口にしさえできる固形物の水準と幽霊が愚鈍なほどに交差しないとひきつけられないんだと思います。上記論文でタンギーとあわせて掘り返されるエクトプラズムもそう。資料化でき検証もできおそらく保管できるほど物質としての残存を求められつつ、具体的にたとえば人間の身体組織や部位に似すぎてもいけないもの。「あれにも似てない、これにも似てない」という、いわば否定神学のオカルトバージョンによって釈然としない明証性をさずかるエクトプラズム自体の微妙な立場。
 エクトプラズムだけでなく、「幽霊の残した証拠」というものをひとびとが夢見、それを現世上で造型しようと考えたときにいろいろのかたちをとって出現した19世紀~20世紀初頭のマテリアに惹かれる。降霊会でのモールド現象にしろ、幽霊の指紋にしろ(これは橋本一径『指紋論』にくわしい)、心霊写真にしろ、「見えないもの」を「見えるもの」へ──というより以上に「見えないもの」を「さわれるもの」へ、という思えば不可逆的でもある移植作業への情熱と、その結実としての品々の必然的に今の眼からはチープに映るほかない手触り、けれど「それゆえに」でも「だからこそ」でもつなげられないまま胸に刻まれる執拗な気がかりに……居残ってしまいたくなる。

 ここらへんの考えについて参考にしてるのはこのあたりの論文:

・浜野志保「初期心霊写真小論 : マムラーからホープまで」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110002950132
・前川修「メディア論の憑依 : ポスト・メディウム的状況における写真」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110008454106
一柳廣孝「心霊としての『幽霊』 : 近代日本における『霊』言説の変容をめぐって」(https://www.jstage.jst.go.jp/article/mgkk/9/0/9_KJ00008993722/_article/-char/ja

 幽霊に関する自分の所感:
怪物、メイフライ、化学繊維 - パンデモーニカはぱんでもヶ丘
声にはならない言葉(私の心霊写真に起こること) - パンデモーニカはぱんでもヶ丘

 そういえば長谷正人はその「ヴァナキュラー・モダニズムとしての心霊写真」という論考で、心霊現象に対する「信仰できなさ」からかきはじめていた。「『心霊写真』を論じることに、いささかのためらいがあった。正直言って私は、心霊写真や心霊現象のことなどいっさい信じてこなかったからだ。むろんそれは、社会・文化現象としての心霊写真を研究する者としては、正しい姿勢なのかもしれない。(……)しかし、それでも(……)」(長谷正人「ヴァナキュラー・モダニズムとしての心霊写真」、一柳廣孝編『心霊写真は語る』p.64、青弓社、2004年)。こうした話の切り出し方にたぶんしゃらくささを感じるひともいる筈で、でも私は珍しい態度だと思ったし、論中で同意できない感じ方もありつつ、少なくともそのかきだし方において好感を持った。批評対象への真偽や信仰はひとまずおいてスマートにかきだしたところで誰もそれを責めはしないだろうに(「これは文化研究なので(……)、私情は排さなくては(……)」)。しかしこうして歯切れ悪い抵抗をも研究者にさえおぼえさせるのが、心霊写真という領域の(今時点では、まだ)独特なプレッシャーでもあることを思う。

*1:おそらくこれと逆方向の説話として、「ついさっきまで食事をしていた形跡や、脱いだままの服があるのにそこに住んでいた人間だけが突然消えたとしか思えない」漂流船の話や、神隠しにあった家の話があるのだろう。こちらは生きた人間が突然かき消えることで、そこに残された物品までもがたちまち「幽霊の残した証拠」へと感触としてかなり近づいてみえる、と思うけれどどうだろうか。