パズルと貪婪

 言いえないものを語ろうとして絶食的にやせ細っていく手がある。レヴィナスの手を誰かが想像でなく思っているようだ。いや。エマニュエル・レヴィナスの『実存から実存者へ』はそんな絶食とは正反対のことを希求して……それでも語りが向かうべき対象ならざる対象の過酷さに、それをこうとしか語れないでいる手が尽きそうになる過酷さとが、無念にも釣り合いをとってしまうのだとしても、その書き物に顔などでなく「表情として」住まっている言葉たちはここでもう一度癒着した肉を引きはがすように「それでも」を言いくわえておくとして、安らいでいてみえた。そこにかかれてある内容に反して、言葉は優しい言葉を話した。
 一方で、言いえないという事態を好機のようにして、そこから無尽蔵に言葉を引き出し飽くことがない書き手のケースがある。宗教的感情の絶頂がそこからわきだす聖なるものをヌーメン/ヌミノーゼと仮に筆しつつ、それはしょせんネガティブにしか語りえないことという諦念から出発しながらも、手はかえっていそいそと饒舌を愉しんでしまうルドルフ・オットーの『聖なるもの』は私にはそういう本だ。まずは人間用に道徳化され擬人化された「善き神」を脱人格化してほとんどひとつのエネルギー体に還元したい目論みがある。この段階で理念的には慣習に則った神への賛辞表現などは廃棄される。他方で、実務的には賛辞表現は保存される。ただし言葉をそのまま受け取らず、表意文字(オットー)的に隠喩化した上で、という注意を与えつつしかし結局は/結果的には高貴な情動語、つまり人間の思いのたけのこもった人間の言葉を神周辺にちりばめることをも認めている著者のたどりはたしかに、両義的なものがあるとしても……。ラテン語にさかのぼり、造語を開発し(ハイフンで連結された西欧の単語=大陸の車両の窓にも気の利かない霜が?)、レコード屋でレア盤の発掘にでも夢中になるように辞書・聖書をたえまなくめくってみせるとき、その思念とは裏腹にオットーの手は確実に無念の外の「よろこび」をにぎっていた筈だし、貶めて言うのでなしに書き手とかく手がこうした肉離れを起こす状況下に多くの人間もまたあると思う。ミルム、ストゥポル、タンベイスタイ、タンブ……これはあれを意味する……語源をひもとけば、語源をひもとけば、語源をひもと……「この語はあちらの語よりいい。しかしこの心情にかなう語を求めるならさらにこの語がいいだろう……」「この語はぴったりだ! だがこの語も?」「この言葉はまさしくヌミノーゼのおそれを表すに足りる……表すに」「しかし…………………………」「やはりたんなる類比的表現にすぎない(と最初に私自身書いておいただろう?)」。