『聖なるもの』続き

 オットーは人間の感情において後成説を退ける(感情に遅刻者はいない)。また、オットーは変化論も退ける(感情に成り上がりや破産者はいない)。感情は人間に対して、信仰のスピーチで言えば:目覚めているか/いないかだけ、地層のライティングで言えば:掘り起こされているか/いないかだけ、ということだろうか。「(……)感情や観念というものは、すでに存在している、つまり『まえもって与えられている』感情や観念によって、その類似性の度合いに応じて刺激を受け、呼び起されるという法則が、われわれの説明である」(久松英二訳、ルドルフ・オットー『聖なるもの』p.104、岩波文庫岩波書店、2010年)。たしかに比喩的に「進化」や「発展」という言葉を持ち込みはするし、ある集団成員の間で成り立つ定言命法の気分を例に出したり、ヌミノーゼを誘発する崇高や威厳といった「原感情」に話を限定して言っているところもあり、必ずしも感情全般に対しての態度は明確にはつかめないものの、人間の個体的生誕とともにどんな感情もあらかじめ精神に前提されてある……という、そんな立場なのだろう、とオットーの話をひとまず私は受け取る。
 「できる限り純粋に宗教的な情動体験」をしたことのない者、「宗教的感情」を思い起こすことができない者は私の本を読まないほうがいい、と冒頭でオットーは勧告していた。宗教的感情の胚芽(=素質)は誰にでもあると想定することと、ただしそれは言葉では教えられず、それと似たような感情・似ていない感情を指し示されることで、おのずから目覚め、掘り起こされるのを期待するほかない、という諦念によって、この冒頭の勧告は帳尻を合わせている。「『われわれのX(=ヌーメン的感情)はこれではないが、これに似ている。しかし、あれとは正反対である。さて、それがなにであるか、君にはおのずとわかるのではないか』。言いかえるならば、われわれのXは、厳密に言うと、教示することができず、ただ刺激され、目覚めさせられるものでしかないということだ」(p.22)。

 (観念と同じように)感情の取り違えということも起こりうる。ある印象に対して、Yという感情で反応するのがふさわしいはずなのに、Xという感情で反応してしまうということである。最後に、わたしは一つの感情から別の感情へ、しかも知らず知らずのうちに、徐々に移行することがありうる。(……)
 ここで「移行」していくのは、じつは感情それ自身ではない。感情がしだいにそのあり方を変えたり、あるいは「進化」、つまり実際にまったく別のものに変化するのではない。そうではなく、移行するのはわたしなのである。つまり、わたしのいまある状態が少しずつ減少し、それにつれて別の状態が少しずつ増大するというふうに状況が変化するという仕方で、一つの感情から別の感情へとわたしが移行するのである。感情自身が別の感情へと「移行」するとしたら、それはまさしく「変化」であり、魂の錬金術とでも言うべきものである。
(pp.102-103。なお太字強調は原文では傍点)

 感情に成り上がりや破産者はいない(そう見たがっているのはお前だろ?)ということで、また感情に遅刻者はいない(──その子は机の下で床にじかに横たわり、眠っているだけ)ということで、なにが押し広げられ、なにが押しとどめられているだろうか。それから、感情に不動性や自律性を帰すモデルがなにをますます輝かせ、なにをますますつらくさせるだろうか。