有償ってことについては何度も考えてて。自分の作品は全部フリーでばらまいてきた訳だけど、こだわってるんでもないと思うんだけど、あとこれからどうなるかは私だって判らないし、だけど。それに無償だフリーだって言うけどそもそも私が公開してるのインターネットが自由に使える位置にあるひとが前提でしょう? パソコンを買ってネット回線通して、って環境を前提してる時点でもうだいぶ私にとっては「有償」を要請してると思っちゃうし、偏狭?な考えだろうけどでもそれくらい整ってるひとが前提な訳ね……。前につくったネットプリントだって小銭が要るし(あんな少額の小銭さえだせなくて泣く泣く見送ったくらい生活が追いこまれてるときがある私は、だから同じ経験を誰にも言えずそっと心にしまってるひとたちを思う。「ほぼ無料」は「無料」じゃない)、寄稿って行為の位置づけもある。
 あわてて言っておくと、こういう話では、私のほうがよくない場所にいると思ってる。「作品には十分な対価を」という声がどちらかというと、ほんとうにどちらかというと今は支配的に見える、ってことに威圧されて言わされてる訳でなくって。今までがブラックすぎたとかそれはもちろんそうで、フリーで配布したいひとにも、資金を集めたいひとにも、それぞれにとれる選択肢が増えて負担はおさえられて、ていう大筋での状況だってあるかも知れないけど。有償にすることで自分の作品や自分のありかたをもっと大事にする、丁寧に生きる気持ちを知ったひとたち……を私のほうこそずっと、ずっと、信じてるくらいで、だから私はむしろやましい思いを抱えてやってくと思います。お金をとることを選んだひとの恐怖の後ずさりが伝わってくるから。お金をとる勇気がだせないやましさ、恐怖にさわることのないやましさ。


 引用botにくたびれるまで打ちこんでお部屋でた。本屋さんすっごくひさしぶり。清原なつののきらめいた表紙。その横に、水樹和佳子。ふたりの初期の短編集がそれぞれビームコミックスでまとめ直されて、ということ(https://twitter.com/comic_beam/status/1039762542912921600)。私は両方買いました。Tさんが日記で教えてくれてた『ベランダは難攻不落のラ・フランス』もさがしたけど見えなかった。今度またさがそうと、このタイトル、今年聞いたもので飛びぬけてます。長谷川さんのフルーリ・ジョゼフ・クレパンもなかった。帰り道にとんかつ屋さんの、通り沿いにガラスケースがお弁当と揚げたてのを丸見えにしてくれてるとこを歩きながら、あっもしかして美術コーナーに並べられてたのではー? 記憶を戻す。詩歌コーナーにある本はなかなかほかのコーナーにさまよいでる機会を与えられない、ってときどき思う。その悔しさと光栄。『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』は一般文芸のほうにあったと思う、そういうことはそれだけで印象に居残ってしまう。