「キズナアイのすべてを肯定する女」(物述有栖)。もしかしたら私がバーチャルYouTubervtuberのすべてを肯定しているように思われるかも知れない。それどころか事実はまったく逆と言わなくてはいけない。これまでかいてきたなかで明かしてきたように「クソゲー」という言葉が配信者から吐き出されるとき、私は血の涙を流しつつ笑っている。それでも、同意しかねると考えていたもの、どうしても愛せないと想定していたもの、けしてすきになるとは思えなかったもの、とうとうが、なぜか急に受け入れられるものになる瞬間の連鎖が私にとってはバーチャルYouTubervtuberを見る時間と今ではなっていると思う。以下、メモを無作法に引用しておく。「なのだ・である」体はここで見せしめだ。

 それにしても、「バーチャル」という言葉はいつからこれほどOKになったのだろう、と思うと驚かされる。いい悪い、好き嫌いではなしに、まずは決定的に古臭い単語として「バーチャル」という単語は長い間墜落したものだったと私は思うだけに。ついでにかいておくと、これもまた、いい悪い、好き嫌いでなしに、「アバターを使ってVR空間で交流する」という発想やそこに宿る想像力の質もそれ自体はどうしようもなく古臭い・・と私などは直観的に思ってしまうが、みながそこにマジで未来を感じたり革新的だと思ってるのかよく判らない。私が「未来」に「不感症」なだけか?(それならそれでよいが)
 たぶんアバターという考え方、顔や姿のありかた、総じて表象への考え方が「まだ、今は」古臭いのだと思う。繰り返すと、いい悪い、好き嫌いでなしに(私自身すきでたまらないアバターの「見え」もある、どうでもいいアバターの「見え」もある。当たり前のことだ)。今vtuberやVRchatに夢中になってるひとより、さらにもっと若いひとたちは、まったくべつの扉を叩きにいくために私などでは及びもつかないような未来への準備をしている筈である。

 仮に誰もがすきなアバターを使えるようになるとすると、使用者の顔の美醜は不問に付されるとしておく。と同時に素朴に考えて、今度はアバター自身の顔の美醜にくわえ、そのアバターを選んだ使用者の美的センスの良し悪しまでもが取りざたされるであろう。誰も口に出さぬが内心で思ってることである。その際にはVR版「自己責任論」を無駄に元気な誰かがわざわざ密輸してキャンプファイヤーを愉しむのではないか(「なんといっても、それがあなたがご自分で選んだ顔ですから」)。そういったことは措くにしても、「生まれつきの顔の美醜に関するいくつかの具体的な苦しみが具体的に解決される(かも知れない)こと」と、「顔という人間の課題が一挙に解決されること」とをまさか取り違えてはいけない筈だが、あたかもVRが後者を一直線にさずけるものであるかのような言説がのぞきみられることもある。それは端的に嘘であろう(それはそれとしても希望的観測・・は保たれるべきだが)。
 また、いつかは誰もが普通にアバターを持ち仮想空間と現実空間を行き来することが当たり前になる(輝夜月の運営はまさにそう言っている)、と述べられるとき、そこでたとえば病人やしかじかの「保護」を受けつつ暮らしている者、老人、赤子、子供、等々の位置はどうなるだろうか。それを抜きにしても「誰もが普通にアバターを持つ」「アバターを自由に選ぶ」というときの「普通に」や「自由に」の水準はどう考えられているだろうか。さらにそれを抜きにしても「アバターをただ選ぶ」という肉体上の動作さえおぼつかないひとを忘れることでこれは、言いえる話であろう。ここで「仮想空間に出入りしたくない/できない者はしなくてよいのだ」と未来図をかきなおされるかも知れない。だが、したくなければしなくてよいですよ式の、要するに強制はぜんぜんありません式の「理屈」など、すでに現在までにも、また今現在も、十分挫折してきたのだ。

 vtuberが好んで取り上げるものを私は理解しない。ASMなんとかはうるせー!知らねー!であるし、ボーカロイド曲の歌ってみた動画をスルーして心も痛まない。要するに判ってないやつということなのだが、vtuberが特別ななにかを感じているであろうものに私はなにも感じない。このことを無視するのはまず自分に、そして私のすきで見ている配信者たちに誠実ではないと思う。

 「趣味」で言うと猫宮ひなたは苦手である。声も語りもモデルも配信内容もなにも悪くない。ただ猫宮の姿からにおいたつようなミルクの匂いを勝手に嗅ぎ取ってしまい、そして私が猫とミルクの取り合わせをほとんど悲しいまでに苦手とするという、ただそれだけのことによる。猫宮ひなたをすきになれたら・・私は願っている。また、ジョー・力一のネタの発想のしかたがことごとく古臭いのには驚かされるほどだ(「噛まない」「立て板に水」といった表現でおそらく称賛されるであろうそのアスリート的な舌のなめらかさには感心するものの)。・・私は「ジンジャの神様」で、自分のネタを放送し終えたあと、所在なげで照れくさそうに司会の横に立ちんぼしていたジョーがすきである。

 ところで、この日記(http://kyollect.hatenablog.com/entry/2018/10/27/120515)をかいたあと、納豆を食事にだされることがあった。私は驚くべきことにそれを食べたのだけれど、上に引いてきたメモのいくつかもそんな風に、いきなり、急に、受け入れられるものになるかも知れない。と同時に、今はそれでもまだこんな風な受け入れがたさがあるとも思っている。豹変はあるだろうか。