短歌の蚯蚓腫れのグリッサンドに際して

 短歌を読むしかたにおいておそらく私が初めに失明をおぼえたのは、歌を音の集まりに再構成した上でその構成音を一個一個取り上げては「この上句のY音の柔和さが(……)」「K音の硬質さ/軽快さが(……)」といったしかたで音を聴取しようとするしかただったのに違いない。それは私には端的に美食家に見えた……という偏見は以後すぐれた韻律論のいくつか、そして悩みながら考えることを知っていると思われた何人かのきれぎれの文にふれることで修正され、説得はされた。言い換えるなら美食家への抵抗感の心底からの「解除」は今もされないままだ。音を語ることは必須なのは判り、音を語ろうとする意志と技術には打たれつつも。そしてただもう、この箇所の音がこの歌ではすき、という率直な打ち明けにつねに励まされながらも。
 「言葉の意味は短歌のうち半分か、それ以下のものであるので、そんなのの話をしても短歌の話をしたことにはならない」(我妻俊樹)*1。そうであるからには音についてなにか言わなくては、あるいはその意志にふれられなければ嘘だろうというのは正しく思われる一方、一音単位で──あえて言えばボトムアップ式に──音色を拾い上げては全体の韻律の「説明」にかえるばかりでは取り逃されるほかない音の水準もあり、私にそれはほかでもなく「音程」のことだと思える。音程についてなにかしら語るには一音単位ではなく、べつのセグメント(単語、フレーズ、句全体、一首全体、とうとう)をその水準上必要とするだろうからだ。実作上でも、「上句と同じような音程で終わってしまうからべつのかきをとる/同じような音程で通すべきだからここは残す」という音程の水準での判断が自分自身かなり多い、そんななりゆきもある(音程という言い方をしなくとも、ほかの歌人もこうした局面での判断はいたるところで行っている筈だ……と思う)。しかし、音程という考えについてふれそうな、いやほぼふれてさえいる筈の鑑賞は、しばしば音程をすり抜けて一首の肉声の固有性というレイヤーに一足飛びに結びつけて語られることが私には少なくないように感じられた(「くぐもった声」「明るく華やいだ声」……)。そこまで切り詰めて言わずとも、音程という執拗で死ににくい現象の水準からともかくかいてみることで明らかになる思いもある筈なのに、という悔やみは、まずそうできていない自分自身に向けられるべきだったと今思う。

喉奥が舌先が風に触れていて震えているのはこの夜のほう
(鈴木晴香『夜にあやまってくれ』*2

 音程はべつにきつい話でもないし、きつく話したい訳でもない。ただ現象としての音程は私にはいつも少しだけ、きつい。この歌でもそうだ。上句、「喉奥が」「舌先が」「風に」「触れていて」はそれぞれのセグメントの最後の音程がすべて私の耳では大体同じ枝にかかる。そう聞こえる/読める/声をあげる。最後が同じ音程に集うということは、それは低みから初め、声がでていることも私に納得させる。とともに、「風に」「触れていて」をひとかたまりの音程のもとに歌いだすものも内にいる。「風に触れていて」の「触」で一段落声を下げずにこのセグメントをなんとしても保持したい誘惑もあり、そのゆえは、いくぶんかはこの歌の(文字の視覚性も含めた)リズム観の持ち味であるし、それでもやはりいくぶんかは音程という現象からの誘いにもよるのではないだろうか。そしてここまで複数のセグメントに同じ音程の重ね書きを読み手として担いこんだあと、以下の「震えているのは」の最初の「ふ」に今までよりも一段低い深みから声を流そうと思わせるのは、これが下句というプレミアの意識にいくぶんかはよるかも知れないにしろ……また、あえて上句と同じ音程で始めながら、「……のはこの夜のほう」の上昇下降のゆるやかな偏差に声をあずけたくなるかも知れないにせよ。
 どのセグメントが「とくべつ」に聞こえてくるか、どれをそもそもセグメントとして「とくべつ」に扱うよう告げてくるかは、ひとによってどころか、私自身の内でも瞬間ごとに変わる。さらにはセグメントを通して語られうる音程もその都度。音程のレイヤーは一音単位で見ているとき忘れられるものであるし、逆に音程にこだわっているかぎりは一音単位の質感やそのほかの多くのことも忘れられるには違いなく、結局は「今ひとつだけ見つめているもの」を増やすことはできないという人間の「きつさ」(でも、それがもし「きつい」ことならば)に多く負う煩悶であるのだとは思う。私の「人間的な」不足で今ほとんど韻律論を読めていないけれど、もしすぐれた韻律論が今もかかれている、かかれていくとしたら、それはこうしたきつさ、「ひとつを見つめていると、ほかのいくつもを取り逃すことの栄光と悲惨」ということのきつさにどこかで強くふれるものであって欲しい。


 歌から離れて言うと私は普段でもひとと話す前、話した後で、自分の口にした言葉の音程がそれでよかったのかどうか……内心で気にしがちで、会話するのに音程を気にするなんて、と思われそうだから、要するに取るに足らないことだと思われそうだから、他人に話すこともない……こうしたことを「出自」や「風土」への態度から伝えてみることもできるかも知れないし、ある場合にはそれは誠実でさえある筈だけれど、私は自分の個人的な出自を音程への煩悶と過度に結びつけたくない。離れている人間ほど「中心」の幻想に敏感に気づくことができる、といったそれもまたひとつのせつない幻想から離れて、音程への煩悶というものは(危険な語彙を借りれば)もう少し普遍的にひとが浴びうることの筈だ。だから短歌が語られるに際して音程への思いがあまり明かされないできたようなことが、私には少し残念だ*3

クリスマス・イヴの街行くひだり手に薔薇色の眼薬をあたため
(西田政史『スウィート・ホーム』*4

 知識は「めぐすり」と読むのですよ、と教えるだろう。しかし「がんやく」と一度ならず二度三度読んでしまった自分の経験は、これは懇願したって消しえないものだ。歌のほうでゆるしてくれない。そしてこの消しえなさが起こったのはこの一首の途上である以上、この歌は抹消不可能な「がんやく」の迷いがちな、けれども一度声の出だしを決めたならもう迷えない、その都度誕生し悔やむ風もなく消えていく音程=行程のシルエットを繰り返し私に教えてくれるだろう。音程は、リズムや発音といったまぎれなく重要な項とときに相補的に、ときに混合的に、ときに競合的に現れでるのをやめないだろう。音程は安定ではなく、その前に引きずりだされるたびに「お前は今はどう声を発するのか。同じ私を昨日どうし、明日どうするかはともかく、お前は今はどう声を発するのか」という問いならぬ問いを自分がすでにどうくぐってしまったのか、という都度の事態を指すだろう。どうして、という声の音程の振れ幅はそこで人間と名づけられている者の栄光と悲惨にほとんど似てみえてくるだろう。

*1:https://twitter.com/agtmtsk_bot/status/916500114503458817

*2:鈴木晴香「夜がきらい。でも暗闇でしか見えないものがある」『夜にあやまってくれ』p.124、書肆侃侃房、2016年。

*3:正岡豊が「メロディアス」という表現を用い、またツイートの短い文のなかではあれ、歌の音運びを「↑↓↓↑↑↓↑」といった風に音程の水準からともかくも言おうとしてくれたことに、私などはいまだに助けられた思いでいる。

*4:西田政史「アンドロイドの記憶」『スウィート・ホーム』p.37、書肆侃侃房、2017年。