海外の作家や理論家の訃報をたしかめたとたん、国内では未訳の本を云々しはじめ「一刻も早く心ある訳者と出版社によって翻訳されるべき」とかしたり顔でツイートを回してみせる人文系のひとびとには笑いがこみあげてきます(どこまでサービスで頭がいっぱいなの?)。遺産勘定に非情に徹するのでもなく、取り乱すでもなく、死に際しての「温情」(言葉がありません、的な)も保持したいし、しかしこの目利きの我こそがこの死者のカタログから最良の「オススメ」をしてみせるのだという自負もおさえられない、その悲惨さ。
 私が潔癖症なのが悪いのかも知れない。誰かの死をきっかけに良くも悪くもその人物に興味を持つことは私自身あるだけに。死をきっかけに。死をきっかけに? けれど訃報を聞き、○○死んだんだ、と素早くかきこまれる一言は「あの死者の名はもちろん知っていました/知りませんでした(でも死んだなら、それをきっかけに興味はでてきましたけど)」のどっちかだと思います。それはどっちも同じ態度です。それはどっちも死者の名が聞こえるしかじかの文化圏に私だって属してますよという告白とその参加欲でみなぎっているし、それはどっちも「私」という「プレゼン」の大告白大会にしか見えない。プレゼンならせいぜいかっこよくやればいい。違うしかたで追悼をしていくひとはそのとき誰にも見えなくなる。