柿沼裕朋『水銀のゆらぐ言』

水銀のゆらぐ言

水銀のゆらぐ言

 これだけを伝えに来た、のモードは余裕と取り違えて受けとられることがよくあると思う。ぐだぐだ説明してる時間はない、そして自分がどうしてこんなことを言いだすに至ったかの経緯なんて知ってもらおうとも思わないからただこれだけ言いたい。当人はほとんどせっぱつまった思いで言っているのだけれど、ひとつの大事だけを訴えようとするほど、余裕ある言葉だと他人には取り違えられる危難をも濃くくぐるのかも知れない。ああ、またそれなんですねの反応。たやすく箴言化させられるとも言えるけれど、これだけを伝えに来た、と確信的に言おうとすることはつねにその危難をくぐるのかも知れない。

柿沼裕朋『水銀のゆらぐ言』p.57、国書刊行会、2018年

 紙面の上でさらに紙のものたる形象戦に選ばれて切りとられたチャイルドたちのなかでは、この子がすきです(名前は「釘」)。この子は手がかわいいの、案じてます悩んでます、って感じ。ぼへーっとした上の顔もかわいい。
 絵本とのことだけれどこれが絵本なのか私は判らない。須永朝彦は「美しき書物」とかいていた。そういえば同じく今年でた服部真里子歌集『遠くの敵や硝子を』は間村俊一のはっとするようなコラージュとともにあって、私自身も稚拙だけれどコラージュデビューしたようで(そのいくつかは「ダンチェ・アルアルチカ」に封じておいた)、そういうあれこれもあってまたコラージュのことを思うことがある。シス書店、ウニカ・チュルン……。実景にキャラクターをペンでかきこんでいく山中千瀬は「きりぬき」でなく「かきこみ」の筈だけれど、私がコラージュを見るときどこかでそこからの波も嗅いでいる気がする。そういういろんな。昔と違ってコラージュを見るときは作り手が背景をどう処理してるのかを気にするようになった。単色の背景の上にキャラクターを停めるのか、背景に舞台の手を入れるのか。自分でコラージュを編もうと思うときは、だいたい古い科学書や風景写真の一ページをそのままキャンバスにして、そこに切り抜いた子たちをよそから連れてくるのがすきだと思う。おそらく怠惰なやりかたではあるけれど、やっぱりたのしさ、甘く痛むような気持ちはおさえられない。
 それにしてもコンピューターのお絵かきソフトでコラージュを済ませてしまう者の言ではあるので、『水銀のゆらぐ言』におけるコラージュ作業の手/機械の割合など判らないけれど(すべて手作業?)、とくに「ゆきのゆき」で見せてもらえる結晶の、指でちぎった紙特有のぼそぼそとした痕跡にはうらやんでしまうものがある。