『写真のボーダーランド』(浜野志保)

 大森荘蔵の初期の知覚をめぐる議論でこんなのがあったと思う(この日記の最後の後にかくようにこの私の記憶に失敗と成功とがある)、たとえば顕微鏡などを用いて通常の人間の眼ではとらえられない「組織」(椅子の表面や、人間の皮膚など)を写したプリントがあるとして、しかしそれが、いわゆる「ひとの眼には見えない世界」だというのはあたらないのだという。ほかでもない、自分の手をこうしてただ見つめることがそのまま、顕微鏡があらわにする拡大された皮膚組織を同時に見つめることになっているのだから、と。ここで焦点は「見える、見る」ということで、なにを、どこまでゆるすかにかかっている。皮膚の表面の組織はひとの眼には見えないどころか、ひとは毎日それをしっかり見ている。皮膚の表面のたしかに微細だろう組織を見るという出来事は、要するにふつうにこうして手の表面を見るという出来事にそっくり含意されてある。ただし、顕微鏡を用いて初めてつぶさに明らかになるような、そうした見えによってではないにしろ(……)。この議論には腑に落ちる点と腑に落ちない点とが同じくらい混ざっていて、長く私のなかにも居残ってきた。整理して詰めるべきだとも思うし、はぐらかされた気もしながら、なにか不穏な心底からの手触りも無視できない、そういう議論だ。ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』にも類似した問題がなかったろうか。
 「人間の眼に見えない」という意味の水準も、以上のような議論を踏まえたとき、「体内の骨格」と「物の表面組織」と「幽霊」とではいっしょくたにする訳にはいかなくなると思われる。不可視のものを誰の眼にも見えるようにする写真という主題に向かっていく際に、X線写真、オド写真、流体写真とうとうのエピソードがとりあつめられていくのは必然、と納得もしながら、そこは少し注意したく思った。

 ところで「霊媒者や霊感の強い者のみが見ることができる幽霊を、誰の眼にも見えるよう白日のもとにさらすのが(心霊)写真だ」というテーゼを多少一般化させてかきかえるなら、「選ばれた者のみが独占していたXを、身分や生まれに関係なく万人がふれられるものへ」となる。この隠喩はもちろんいたるところで流通し、同じくらい破綻してもきた。端的に、幽霊がそこにいるという心霊写真を渡されて、その画面内に幽霊を見いだす力能が要る。それから、幽霊を見いだせるまで写真を眺めつづける身体上の力能が要る。それではない幽霊を別個に見いだして、ひとり写真に頷く力能が要る。見えてないし、信じてないのに見える、信じる、と言い張れる力能が要る。最初から拒否する力能が要る。見えない、信じない、と言う力能、言う気力もなくほかの者が談笑している間にそっとその場を去る力能が要る。写真を渡される機会さえもたないでいられる力能と、渡されたことに気づかない力能、とうとうが要る。本書には盲目の者が妖精を心で視認している話がでてくるけれど、虫が見る霊、部屋の隅の埃やつむじ風が見る霊、早朝5時台という時間帯自身が信じる霊、コーヒーをこぼされたアスファルトの表面の組織が信じない霊、などについてはどうだろうか。


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 上のような日記を数日前かいたあとベッドで眠ろうと眼を閉じて考えとともにさまよっていると、大森荘蔵の元の議論では「皮膚の組織」などではなく「分子」という言い方をとっていたように思え、だんだんそれがただごとではない自分の記憶改竄、言うに言われない罪業のように思えてきた。それでも大まかな趣旨はおそらくあまり変わらないと思われたものの、不安をおぼえてそのままベッドから携帯電話を操作し、いったん日記を下書きに戻し、また眠るべく眼を閉じた(……)。今日、『言語・知覚・世界』の該当箇所をさがせたので引いておく。私の記憶のでどころはここかと思えただけで、忘れていたべつの本、べつのページが参照項になっているかも知れない。以下に引く議論は、ミクロ記述(出来事を描写する物理化学的な語彙)とマクロ記述(出来事を描写するひとの日常的な語彙)との関係について考え込んでいくさなかでの文だ。つけくわえておくと「分子」という言い方はネルソン・グッドマンの語彙だったということも合わせて気づかされた(大森議論では「粒子」)。ひとがどう話を混ぜ、短絡を起こすか、あえて言えば:というより、どう変形をこうむらせることで私がなにを生かそうとしたかということ。

 まず一つの混乱を整理しておく必要がある。粒子は見ることも触れることもできないというのは果して正しいだろうか。そう言われるのは粒子が見たり触れたりするには余りにも小さいからである。しかし、この根拠、つまりその小ささから、見触を粒子に拒むのは必ずしも正当ではない。
 われわれが虹を眺めるとき何が見えているだろうか。もちろん七色の帯である。しかし、見えている姿、知覚に現に与えられている色模様とは別に、「何を」見ているのかと尋ねられたらどう答えるだろうか。もしこの問に応えるべき答があるとすればそれは、水滴だという以外にあるまい。しかしもちろん、一つ一つの水滴は小さすぎて見えない。では、「水滴の集り」を見ているのだろうか。しかし「水滴の集り」とは水滴の物理的な集団以外の何ものでもあるまい。「水滴の集り」は水滴からできているのである。したがって「水滴の集り」を見ているならば、まさに水滴を見ているのである。同様に、遠くに飛び去る飛行機は銀色の一点としか見えないが、われわれは飛行機を見ていることに相違はない(そうでなければ一体何を見ているのか)。ところが飛行機は翼や胴体その他からできている。その翼も見ず、胴体も見ず、エンジンも見ずして、すなわち、飛行機のいかなる部分をも見ずして、しかも飛行機を見ると言えるだろうか。さらに、今眼の前にある灰皿の表面を例えば一億の小部分に細分したとする。その一億個の小部分のいずれをも見ずして、その集りを見ることができるだろうか。
 要点は次の点にある。粒子は見も触れもできない、ということの意味は、粒子は如何なる意味ででも直接見たり触れたりできないということではなく、直接にはその一つ一つを識別して見たり触れたりはできない、ということにとどまる。もし、この灰皿が粒子の集りであるならば、私は灰皿を見る度に、灰皿に触れる毎に、粒子を直接に見、直接に触れているのである。ただ、その一つ一つを識別して見、触れることはできない、ということなのである。このことは、粒子の代りに灰皿の一億個の部分を置き換えても全く同様に言える。したがって、粒子と直接経験との距離は、現に今見ている灰皿の一億分の一の部分と直接経験との距離と同程度なのである。
大森荘蔵「第I部 言語 6 説明と記述」『言語・知覚・世界』pp.115-116、岩波書店、1971年。太字強調は原文では傍点)

 ところで私が本を見、本が分子の集積であるというなら、私は分子の集積を見ることにはならないか。しかし他方、分子はひとつも見えないのに、分子の集積は見えるとはどういうことだろうか。
菅野盾樹訳、ネルソン・グッドマン「第五章 知覚にかんするある当惑」『世界制作の方法』p.137、ちくま学芸文庫筑摩書房、2008年)