『忌臭祓い』(奥村真)

 メディアマーカーという読書記録をつけるサービスがあって、しばらく前に終わった。10年近く使っていた。ひとなみに「まめ」だった訳だ。けれど読書記録をつけなくなってもなにも変わらないことが判り、ひとの言葉を借りればすっきりした*1。読書記録に対する悪感情があるのでなく、10年使ってもなにも残らなかった、残してはゆかなかったツールとのつきあいというのが私にもあったらしいことを思うと、そういう気持ちだな、というだけ。同じほど使っているブラウザ:OPERAにも、離れるときにはそういう気持ちを抱くに違いない。

 高橋正子を死においやった者は誰か。それは、かつての高橋正子の仲間達、すなわちかつて前衛短歌に身を置き、時代の退潮とともに逸早く前衛から身を引き、秩序の側へ帰った者達です。短歌ジャーナリズムをわがものとした彼等は、あなたから発表の場を奪ってゆきました。あなたは淋しい想いで、八〇年代という時代の盛衰を見つめていたことでしょう。
福島泰樹「前衛短歌への憤死──高橋正子、佐竹弥生」*2

 80年代の詩集で『忌臭祓い』というのを古書店から掘りだしてみる。どういう扱いを受けているのかは知らない。これは帯が「よくない」から、もっと言うと佐々木幹郎の紹介文が不愉快だったから(悪かったね)、それをまず引いておく。

みんな廃めちまえ
と欠けた月(「栗名月」)


奥村真は都会の路地の片隅にある八百屋の二階に住んでおり、職業は?と聞けば、「渡りのバーテン」と答える。ロシア語を愛し、つねに酒瓶を手元から離さない。酔っぱらっては陋巷に窮死することが夢であると語る。(佐々木幹郎*3

 佐々木幹郎は措いておいて、この「みんな廃めちまえ」はみんなやめちまえだろうしいい一行だな決まってるじゃんとも思うしそして詩のなかで「百姓」に「ひゃくせい」とルビをきつく打てる者はそうはいないだろうから、そこは私自身うなだれて受けとめるにしても、この詩集がもし前半から後半にかけて年代順に作品が並んでいるのでなければこの詩集はむごいものとして与えられる、と言わなくてはならない(そのほうが本としては幸せだったかも知れない)。この詩集は、この詩人だけの自由詩が始まる、始まりだしている、というまさにその地点で終わっているように私には映る。
 要するに、私にこの詩集の前半はきびしい。佐々木幹郎の帯がとても嫌なのは、この詩集の言葉のだらしなさを「酒浸りの詩人」という像のだらしなさに直結させてそれで済ませる回路をわざわざ用意してるからでもあるし、だけどいちばんだらしないのはそうした楽屋裏のエピソードにつまらない詩に対する八つ当たりの口実をさがしてしまう私自身でもあるに決まっているけれど、ひとつひとつの詩が呆けているだけならまだしも、つまらない詩がふと鮮明な一行をつづってみせることさえそうした予断に陥没している状況下では、酒飲みがふと正気に返った様子のようでそれもまた気に食わない(……)。ここまで大分人格批判をしたようだな? 死にたいのか?  にたいか? 「地下水参拾米坂途のぼりつめ」「揺らめきながら映る木漏れ陽ほどのこころの襞を/一斗がまで二回炊け」(「忌臭祓い」*4)の助詞嫌いと漢数字へのフェティッシュ、「純粋持続の空」の「ヒヒ的存在」*5につけられた脚注がまとっている気分、「ドラムカン風呂蹴飛ばし螢群棲」(「螢の通夜」*6)の直前まで駆けてきた動詞に情景でシャッターを下ろす体言止めといった詩の言葉の技術的な顔は、たしかに北川透鈴木志郎康以降のものかも知れない(「以降」だからなんだ……?とも思うけれど。少なくとも以前/以降という境界線は気軽に取り外しがきくステイタスではないのだから)。生活詩というきなくさい用語がこの詩集に宛てられるべきではないとも思う。けれど、そんなことではこの前半のむごさ、きびしさは救われないと思う「浦島太郎の恋」。

光の速度に接近すれば
時間膨張盲腸鈍重なろおかる線繊細な前菜は開けっぱなしのといれのおんなと
幼ななじみのような猥雑な視線を交わしたのですが
童心少年野心精進料理の改心傷心
ましいんの誤診
一心不乱な斬新邁進
決心安心乱心
往信不通の遠心力求心力
不信の近親献身乾坤渾身込めての先進的な瀕死憤死ほどでもない
悶死慢心論旨支離滅裂劣悪嗚呼あくこともなく
しんしん雨降り恋闕あんどろめだ薔薇血
塵芥地球極東無情辺境侠客(おとこ)一匹


きみと暮らしてみたい
(「浦島太郎の恋」*7

 悪意ある引き方をした。しかし文字の自走性に主体の速度の多くをゆだねているのが悪いのでなく、自走性を恃みにすればするほど、むしろ詩は遠くまでは行かれないということが無残に打ち明けられているのがきびしいのではないか。素朴に音でつないでいくと、かえって同じ思いの周辺しか歩き回れないことが暴露されてしまっていることが、おそらくむごいのだと私は思う。そして音と意味と思いの罠への突っ込み方のほとんど感動的な無防備さにおいて際立っているこの詩をやはり引かなくてはいけなかった、とも。


 この詩集がそうむごくはなくなるのはどこからだろう、「生まれない秋」からか。「眼施(げんぜ)」からだろうか。雰囲気が別になったとまでは思わない、ただ明らかに一行への信頼することの質が違う風になっている。それはすでにだらしないとは気安く読み手に言わせないものだ。「リゾートマンションまるごと沈む螺旋の湾岸駆け下るとふしあわせという名の蛸がいる」(「廻転」*8)、ああそこでその言葉があるのは知ってたよ、と読み手に先取りする傲慢をゆるさないものが生まれだしていると思う。一方で、行分けをする手管が現代詩っぽさに染まりだした(巧みに、いやらしく)、とひとは感じるかも知れない。って、ねえねえ。ひとは、じゃないだろ? 私がだろ? (……)けれど、そうした、それこそつまらない読み手からの評価語の裏で根強く流れていく心づもりが。

心優しいストリッパーたちの電車は揺れたい
電車は降りたい
生まれるかもしれない風ならば
吹いてやらない時計ならば狂ってやる
生まれないかもしれない秋
赤ん坊の名をつけた
きっと何もない
(「生まれない秋」*9

 この詩人を福島泰樹が朗読したという出来事も、なによりこの詩人自身に『忌臭祓い』という第一詩集「以降」の詩集のいくつかもあることも今日私は知ったし、だから第一詩集のみで姿を消すという身のこなしもできず続けていった筈の営為がこの詩人にもあるということで、ほんとうは少しひるんだ。この第一詩集のあとに詩人がまだやっていけているということに率直に、そう、違う、ひるんでない、クソが、と言い張りながら。自分のために。「たたかいはすでに/いさかいはつねに」(「変若水*10)。

*1:自分がボードレールが好きじゃないと気づいてすっきりした、とあるときに斉藤倫が言っていたトーン、そのトーンをここで私は借りたくなっている。

*2:福島泰樹「前衛短歌への憤死──高橋正子、佐竹弥生」『葬送の歌』p.99、河出書房新社、2003年。

*3:奥村真『忌臭祓い』、砂子屋書房、1982年

*4:同上p.10

*5:同上pp.28-29

*6:同上p.16

*7:同上p.27

*8:同上p.71

*9:同上p.55

*10:同上p.63