ある時期までは私も単純にこう考えていた。かきたいものごと、話したい話題べつに、アカウントを分け、自分の名前を増やし、すきなだけ分裂すればいい。この誘惑は今もつきまとっているし、ひとがそうしたしかたで自分の複数性とつきあっていくことにはもちろん敬意を払うつもりであるけれど、ただ、どうして自分がアカウントを分けたくなったかと考えこむと、そこでは自分という性格の専門化、性格の専用化とでもいうようなものが誘惑を働かせていることを感じずにはいられなかった。だからやめた。
 アカウントを分け、名前を増やすと、一見自分をばらけさせたように見えて、しかしかえってそれぞれの主体(アカウント)の単位内では性格が強く固定的になっていくようだ……。複数性などという用語でひとの精神を指すのは生ぬるいだろう、ひとの「ずたずた」、ひとの「ぼろぼろ」というべきだろうその、ずたずた、ぼろぼろをひとつの名前のもとで行うこと。自分のなかの誰をも「専門家」になどせずに、ひとつの土地の上でずたずたになってみせること。控えめに言ってそれはかなり不細工に見えるだろう(……)。結局は誰にも任せられない。多彩な名義をなげやりにも乗り継ぎ、乗り捨ててきた者が、あるときに決めた名前、そのただ一個の名前のもとにいてみよう、と思い直すことは「退行」だろうか。あなたにはそうかも知れない。私にはまったくそうでない。