ひとを名で呼べなくなるとき、というよりむしろ呼びすぎているとき

 「バルーフあるいはベネディクトゥス・デ・スピノザ」と呼ぶなら、「クロード・カーアンあるいはカアン」と呼ぶべきだし、「皆川」と呼ぶなら「カヴァン」と呼ぶべきだし、どちらかに徹すること。時と場合によるし、表記についてはアカデミックな慣習もあってしまうけれど、基本、名前の呼び方で差別をつけないこと。著作家の人名はフルネームで表記するなら誰をもフルネームで呼ぶ。姓・名の片方だけで呼ぶのなら誰をも片方だけで呼ぶ。上の人名のセレクトは私のほうで変えさせてもらったけれど、小泉義之は昔おおむねそういう趣旨のことをかいていた。……
 もし、「バルーフあるいはベネディクトゥス・デ・スピノザとフルネームでスピノザの名をかくことが気取ってみえる、鬱陶しくみえる、とひとが思うならそれはどうしてだろう。「バルーフあるいはベネディクトゥス・デ・スピノザよりもスピノザの四文字のほうが実は今でははるかに、そのひとの人名の位置を正規に:事実的に獲得してしまっているからだろうか。そうではなくって「スピノザ」という文字の前後に「(エチカの)スピノザは……」「スピノザ(の立てた自由論)によるなら……」と、換喩的な力動をこめて使うことを前提とした、名という支持体として持ちだしたいからだろうか。そのためには「スピノザ」という四文字のほかの文字は夾雑物だから、だろうか。つまり原稿の問題だろうか。誰かが嘯くかも知れないように、そこでは名前はすでにひとつの擬人化、キャラ化をされているからだろうか。単に(、けれど無視しえない)エコノミーの問題だろうか。要するにふたたび、原稿の問題だろうか。より大きいのは好みの問題ではないだろうか。私は確実に好みで呼び方の多くは決められていると思っている。「そう呼ぶのが気持ちいいから」でだいたい決まっていると思う。人名の権利、名前の権利を思いわずらってまで、人名を表記する際にひとつひとつ悩んでかいているひとはどれだけいるだろうか? また、一度フルネームで呼んだ者は、以下省略という訳で同じ文内部では姓・名のどちらかで綴ることがゆるされるし、慣習になっているとしたらそれはなぜだろうか。
 逆に「カーアンあるいはカアン」と姓のみでいきなり呼ぶことが気取ってみえ、鼻持ちならないのだとしたらそれはなぜだろうか。知名度の問題だろうか。スピノザほどカーアンは認知度が高くはないからだろうか。それともある場合には馴れ馴れしいからだろうか。かきかたの問題だろうか。文脈の問題だろうか。読み手の問題だろうか。塚本邦雄は性別やキャリアを問わず、他人の名を、家族史を引き継ぐ姓ではなく下の名前でひとりひとりを呼ぼうとしたけれども(そのせいで極度に読みにくくなるとしても、誰が気にするって!)、そこに強烈なもの、異様なものにふれた思いがしないだろうか。私はする。姓呼びすることのエコノミーへのそうした抗いはどう映るだろうか、それが引き起こすものはどうだろうか。「家」から引きはがしてひとりひとりを特別な他人として下の名呼びすることが、かえって新しいひとつの家系を組織しかけていくかも知れないことについてはどうだろうか。
 また、筆名はほんとうにはいったいどこまで姓名を見いだせるもので、どこから見いだせないものになるだろうか。筆名にも姓名はあると実はどこまで言えるだろうか(ゲラシム・ルカのケース)。人間の名前における姓名モデルを筆名も多くの場合、踏襲している筈だけれど、それは姓名モデルに「擬態」しているとみなす考えについてはどう思うだろうか。本名がそのまま筆名であるひとと、姓名モデルを踏襲した筆名を用いているひととでは、フルネームで呼ぶということの意味も意義も違ってくるのではないかと思えないだろうか。
 さらに権利関係的な観点は措くとしても、本名と筆名とが「綴り」の同一性の点で完全に一致しているようなひとでも、なにかをかき、なにかを伝える経験を一度くぐったならそこで筆名化という境位をくぐっていないとどこまで言えるだろうか、言えないだろうか、あるいは言いづらくなるのはどこからだろうか。
 私自身で言うとある時期からできるだけ全員フルネームで取り上げるように努力しようとし、そう願い、たえず失敗してきた。成功しても失敗したといつも思う。もちろん、心内では呼び分けているからでもある。どうしてもひとの名に、いやひとの名だからこそ、呼び方の好みがあってしまうからだ。……人名を呼ぶというしかたで遇するのについては、「人間で軽んじる」ことと「人間を軽んじる」ことの両極があるようで、それは「生身の人間扱いしすぎる」と「生身の人間扱いしてない」ことの両極でもあるのではないだろうか。それはけして、フルネームで呼ぶか/名に断裂を入れて片方だけで呼ぶか、ということの両極とは合致していないけれど。


 追記.12.26:
 小泉義之がひとまず念頭に置いていたのは、個別の研究論文や雑誌に載ったり載らなかったりする批評文をかく際の論者の不統一な手つきについて、だったろう。それは私だって理解している。だけれども、ああそっちの話なんだ、とか、そういうひと向けの牽制言語なんだ、と自分に関係ないこととして見逃すことは私には無理だった。たとえ日記をかいていてもその問いかけは届いてしまう。こなれない今日の言語で言えば私に「刺さった」からだ。実際、「郷原佳以」や「鈴木雅雄」を名字で呼び捨てにすることはためらわれるくせに、「ブランショ」や「ブルトン」であれば即座に「モーリス」も「アンドレ」もなく呼び捨ててしまえるなら、その不均衡になんの気兼ねもないというのなら……それはやはりどちらかを「生身の人間扱いしてない」ということではないかと自分を振り返って思わずにいられないし、しかも死者の名ならばますますその傾向に拍車がかかるというならば、だ。間違いなく、ここで私も外国の書き手の名を差別している。それも「なんとなく」で差別している。日本国外の書き手の名を人間扱いしてないとさえ言える。フランス語のアルファベットを日本語のカタカナに移し替えるという操作のおかげで、日本語内ではたしかに「ブランショ」や「ブルトン」という文字はそれだけで固有名として機能する。ブランショブルトンとかいただけで「あの」「例の」と判ってもらえる、通じ合える空間を前提視していることは間違いない。文字数のレベルで節約している訳だ、立派にエコノミーしている訳だ。それならそれでいいけれど、ひるがえってではなぜ同じように日本語の名を持つ書き手の多くも節約してやらないのか、それは結局とりつくろいようのない名前差別ではないのか。知名度などもう問題としないにしても、「郷原」や「鈴木」だけでは文脈をよほど誘導しないとやはり一息では伝わらないだろうから、日本語内では名字がかぶる書き手と一息では識別不可能だから、ということで、そんな節約術につきまとわれて上のような不均衡を丸ごと受け入れるのなら……。
 一方で、これも滑稽さ(蓮實重彦「歓待の掟」)として扱われるだろうか、「モーリス・ブランショさん」とか「アンドレ・ブルトン氏」という表記の居心地の悪さを私も認める。しかし聞き手の居心地がいいか悪いかなどで敬称も、敬称をそえたいというひとの思いも、足し引きされるべきではないし、そもそも自分の──書き手の──居心地がいいか悪いかに沿ってかきかたを自由に変えることなどゆるさない綴りが、結局は人名という言葉ではなかっただろうか。枡野浩一ペンネーム批判*1の力点が、「自分の力ではどうにもならないことがある」ことを受け入れるかどうか、という点にかかっていたことを思いだしたい。これは、自分に与えられた本名という制度に対し、自分という当事者からの態度を問題とするものだった。しかし、他人から見た場合、誰かの名前、その名前という文字列も同じように他人にとっては「自分の力ではどうにもならない」ものではないか?
 ここまでかいてきたことに抗う。(私の記憶でなぞったところの)小泉義之の人名表記についての不統一批判は「禁止」ではないと思う。むしろ、それでも誰かの人名を特別に表記したいのならそれなりのものをもってかけよ、ということを裏で伝えていると思う。自分がどういう思い、惰性、配慮、おそれ、気がかり、可能性を投げ入れるようにして、特別なその誰かの人名をべつな風にかくことをゆるしているか、そんなことまで全部見抜いている読み手を想定するくらいはしろよ、と言ってさえ聞こえる。もちろん研究論文空間周辺の話ではある、だろうにせよ(……)。
 相変わらず私は私の大事な呼び名をそっと打ち明けてしまいたくなるだろう。しかもそうするだろう。不用意に、あまり考えもせずに。いじってはいけない誰かの名前を、かきかえられえない誰かの名を勝手にかきなおすことで、新しく生きたいと思ってしまうだろう。後ろ暗さもなく。相変わらず私は牛巻りこのことをリコピンと呼んだり、牛巻と呼んだり、牛沢さんと呼ぶだろう(とがめられながら)。キャラクターの名前に踏み入れてしまった。厄介だ、とは私は思っていない。「人名」と「(ひとの)名」はいつも食い違う。そこで「呼び名」が声をかけ招こうとするとき、どちらが、あるいはどれがやってくるか知れないから?