今日の日記の後半に載せたものは去年6月にかいて未公開にしておいたもの。
 ところで「早送り」と「複窓」(べつべつの動画再生ページを複数立ち上げて同時に鑑賞すること)とでより強く抵抗感を引き起こすのはどちらだろうかと、動画配信を観ながら考えることが多かった。このふたつの態度は、配信され続ける大量の動画を可能なかぎりすべて観おさめたいがためにひねりだされた、ひとびとにとってはたしかに主要な技法だと思うからだ。一個一個律儀に動画につきあっていたらきりがない、時間が足りない、という訳だ。「早送り」と「複窓」はある意味で対極的なしかたでそれぞれ配信をいくぶんかは加工的に聞かせるだろう。抵抗感は、その「加工」の濃度や経験の深度に沿って嫌の針を振るだろう。端的に言って、配信者の声がどう変わるほうが嫌だろうか、ということだ(……)。「早送り」と「複窓」、そのどちらもを採っても配信者の声の場が変質をこうむるのだとして、「早送り」をすれば配信者の声質やしゃべり自体を変えるはめになる。「複窓」では個々人の声は変わらないけれど、かわりに多数の者がてんでばらばらにしゃべる雑踏にもみこまれることになる。直観的には「早送り」のほうが配信者の声/しゃべりにじかに負荷をかけるものかと思えながら、そう簡単な話でもなさそうだ。また、こうした声の経験を複数性のトピックにむすびつけるのもまだここでは乱暴だろう。これが陰鬱な話か開放的な話かはたやすく定められないものだけれど、私は今のところどちらも採らない、採れないでいる。律儀に一個一個配信とつきあってみている。

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 この一ヶ月ほどで50?60???本ほど映画を観てきて自分の問題が少しづつはっきりしてきた。ひとつは一時停止せずにいられないこと。このひと月で観た映画はすべて自宅で、であるけれど、一時停止せずに観られた作品はひとつもない。がまんならないからだ。3分観て15分休んで、22分観て2時間寝てまた途中から6分観てすぐ5分休んで直前の会話を忘れたので30秒前まで戻して……そういう操作を乱用してきた。こうした操作を認めないのがもちろん映画館という場所で、そこでは誰も一時停止できない。しかしもし自宅で映画を観ていようと、利用可能な技術的操作を封じて作品に臨むひとは、地理的には自宅であっても映画館という経験態を自分のからだにゆるしているのだと思い、私はそれがまぶしい。「再生技術を悪く言っても今更しかたない……巻き戻し、一時停止、ブラウザバック、復帰、字幕か吹き替えかのON/OFF、ボリューム調整、といったパソコン上の操作を引き連れた鑑賞環境にはそれに見合った映画の経験があり、映画館でのそれと単に引き比べてどちらがどうと価値判断をつけることはない」という声はもっともだと思う一方で、映画館に行かれない私の眼には、爽やかなほどの思い通りにならなさを一手に引き受ける映画館と映画館的な経験態度にいつまでもばつの悪さをおぼえる。だから、「自分はまだ映画をほんとうには観たことがないと思う……」(!)などという思い上がった反省さえ、私は口にすることができる。
 そもそもなぜ一時停止をせずにはいられないかというと、集中力が途切れやすいからだ。すると私は、すべての瞬間を集中して観なくては……という、あの初心者的な抑圧のもとに今もいるということなのだろう。しかし私のやってしまうように細切れに時間を継ぎ合せて観ていくほど、それがどんな映画だと自分は感じたか(「それがどんな映画か」ではない)がどんどん薄らいでいく。オルゴールの作り方と鳴り方に似ている記憶の陰影、その彫刻されかたのいっさいは、映画館的な経験態度により深く秘められているといま思う。「今の会話はよく判らなかったけど」「今ぼぅっとしててなにが起こったか忘れたけれど」「最初のほうに出てきたひとと今画面にでてきたひとが同じ顔だったかたしかめられないけど」という印象の取り逃がしに忠実につきあうほうが、かえって。
(2018/6/25 )