疲弊しきってお金がないひとが買いに行く服屋はユニクロでもしまむらでもないです。ユニクロしまむらより服の値段が安い大型リサイクルショップでもないです。そこが判ってないと思います。お金がなくて疲弊しきっているひとが買いに行くのは、自分の家の玄関からでてそこからいちばん近い服屋です。もうちょっと甘く言うと自分の家のまわりにある服屋です。そこが個人経営の、あるいは多少名の知れた洋服のチェーン店にしろ、自分の部屋から近いというただそのことがなにより重要です。もちろんそんな服屋はユニクロしまむらや、あるいは大型リサイクルショップより値が張る服しか置いてないに決まっているけれど、そんな理屈で説得できないほど疲弊してお金がないひとはまいっているからです。そんな理屈で説得でき、「賢いやりくり」ができるひとはそもそも疲弊していない、かつ、お金がある程度ないひとです。疲弊しきってお金がないひとは、服がとうとう着つぶせない、ごまかせないラインを超えたことに消沈しきっているし、そのことですでに頭がパンク中だから。これ以上服なんかのことで、正確に言うと服に使うお金のことなんかで、わずらいたくないから。お金がないことにもお金がないことでごまかせなくなっていくいろいろなことにも疲弊しきっているから、外を歩くのも、あまり入ったことのないお店に滞在するのも、一秒でも早く終わらせたいと願っています。この、一秒でも早く終わらせたさに、服ではなく服をそろえなくてはいけない場面を一秒でも早く終わらせたいということそのものに、ほとんど自分のお金を払うということです。そこで高くついた分は主に食費にはねかえっていきます:言う必要があるとも思えないけれど。要するに、お金がないから安く買えるところでなんとかしよう(/お金がないやつは安い店でどうにかしてるんだろう)という判断で動くためにそもそもそれが要るところの「元気」……それがなくてはどうして服ひとつあわてずに、氷を押し当てられたような胸で、涙ぐんだりせずにゆっくりと「たのしんで」選んだりできるだろう? 疲弊しきってお金がないひとは場合によってはバスも使うだろうし、場合によってはタクシーも乗りさえする筈だと思う。ほかのひとなら歩いていける道でも。贅沢だとなにも知らないひとから馬鹿にされながら。外を歩くのに、外ということに、そしてそんな外を歩くということに、心からまいってしまっているから。そんな思いを一秒でも早く根絶やしにしたいから。消えたいからだよ。

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 「小泉義之もあれで案外口だけ男だけど、口だけでもあれくらい言わなきゃ。」というツイートを昔見た。そうね。と思うと同時に、口だけで頓挫してしまうことの口惜しさを誰よりも本人が感じていると思う、それもいつも伝わる。

 例えば、ある職務のルーティンワーク部分が人工知能によって置換されるとしよう。そのとき、その労働者を直ちに転職させたり馘首したりする謂れはまったく無いのであって、置換された分だけ労働時間を減らしてもよいのである。あるいは、夢物語と嘲笑されるであろうが、労働時間を減らしても(職務給としてではなく、いわば身分給として)給与所得は維持してもよいのである。むしろ、そのとき嘲笑する人物が持ち出すであろう「経済学的」反論を思い描いて、それをめぐって考えを進めたほうがよい。
小泉義之人工知能の正しい使用法」、http://www.r-gscefs.jp/?p=950

 人工知能がお仕事する分、ひとは休んでいい。そして休んだままひとはお金をもらえていい。会社に組織に雇用されながら手が空いていていい、暇人であり続けながらお金をもらい続けていていい。たぶん愚かに見えるだろうけれど私は少し涙した。だってこういうこと言うひとほんとうにいない今。人工知能と労働の議論で主軸になるのはいつもべつの話だ。こういうことは言われにくいと思う。それはどうしてだろうとあっさり考えてみて、といって複雑には考えられないからあっさり考えてみて、ひとがなかなかそう言いだせないのは、「手が空いた暇人に給料払うのは無駄だ」という職業倫理を企業理念をそして結局はお金を回すための現行のモデルを暗に論者がみんな受け入れているからではあるし、そうだから上の引用文にみられるような展望が夢物語だ、というのではまだなくて、そうした今のモデルが有意性を失うまで人工知能の介入と浸透が進めば「経済そのものがまったく変わるはずであり、価格だの所得だの成長率だのといったカテゴリーは死滅するはず」だから、そのときには暇人のまま雇用されお金をもらうモデルさえも夢物語とは呼ばれなくなるだろう、と、いう展望まで含めてかきつらねた上でようやく夢も夢として始まる「夢物語」ではあるにしても。
 働きたくないと言いながら働く人間にひとは同情的に笑いかけるけれど、働きたくなくてしかも現に働かないでいるひとには急に冷たくなる。そして働きたくなくてしかも現に働かず、あまつさえ働いている者並みの、とは言わないまでも生きるに足るよりもう少し、いやもうずっと、十分な収入を求めるひとにはどうだろうか。この「働きたくない」とは「病歴」や「広い意味での信念、動機」といった語彙とは因果的に切れているものとする。つまり、ただ働きたくない、ということ。ただ働く気がしない、ただ働きたいと思えない、ということ。