「けものフレンズ2」1話

 生まれる前から腫れ物扱いだなんてたまらねえよな。私は「けものフレンズ2」も「ケムリクサ」もたのしみにしてた。どちらの1話もよかったと思った。


 子供のころテレビで「ドラゴンクエスト 勇者アベル伝説」というドラクエのアニメがやっていて、モンスターが倒されるとまあその子はさようなら~と消滅するのですけれど、その消えた空間にじゃらん、と宝石や金銀の類が前触れもなく現出する。それをびっくりした思いで受けとったのをおぼえている。あとで調べてみると、このアニメではモンスターがどうやら宝石を元にして生まれる存在として扱われていたようだ。だから倒すと元の姿に戻り、宝石や金銀がモンスターと入れ替わりに現れるように視聴者には見える。一度二度観ただけの危うい記憶をもとに、これ以上の連想なり推論を引きだすのはむつかしいだろう。ただ、「ためこんでいた財宝を倒れるときに手元から取り落す」などという演出ではたしかにえるべくもない、なにか非常に省略の効いた、あえて言えばモンスターが消滅することと宝石が現出することとの間に容易にときがたい「スキップ」が挟みこまれた感触があった……くらいのことは言ってもゆるされるだろう。こんなことを思いだしているのは、セルリアンが撃退され、消え去る際に放つコンフェティとどこか響きあうものを見つけたからだ。鉱物、花、紙のマテリアリスム、その小さな気候変動。


 「懸命に愛する」という表現の内実をいまだ知らないまでも、私はキュルルを懸命に愛したい気持ちにとりつかれはじめている。というのは、キュルルがとっつきにくいひとだからだ。自分の趣味に引っかかったものをその引っかかりの程度に合わせて、受け身のまま惰性ですきになれるものがあるとしたら、キュルルは確実にそういうひとではない、私にとって。恐れずに言えば、キュルルというひとは今はまだ愛するのに努力を要する。すきになりたい。懸命に、という言葉をそのためにとっておく。


(「けものフレンズ2」第1話「きおくのかなた」、(c)けものフレンズプロジェクト2A、2019年)

 美学的な水準では、やはりこの眼のつぶりが最前列に並ぶ権利がある。つぶった際に、上まつ毛を特徴づける一本だけのエッジが逆側におろされてしまう。ほかにも瞳の色違いのありかた、おでこ、などはもう話題にあげられていると思うけれど、私が最初に心からキュルルに対してはっとしたのは上の画像のような瞬間だ。たとえば、かばんに対して、帽子にあいた穴から顔がうかがえることのまともさに最初はっとしたように、だ。
 キュルル以外にも言いたいことはいろいろある。そのいくつかは外傷的な要素もあれば、作品に内在的な箇所がいやおうなくこうむった傷に見えるものもある。しかし、それは当たり前のことだ。ひとが歌ってみせたように「ときめき」とは絶えず試されるものだ。カルガモというキャラクターが1話で顔を見せてくれたことには、私も助けられたと思う。案内係という身分/ステイタスはたしかに危ういものではあるにせよ、誰かを案内したいという気持ちで飛びだす心を誰が汚い手でさわることができるだろう。この作品の出だしにカルガモがいてくれてよかったと思う。