「ヤマノススメ サードシーズン」5~13話

 熱いコーヒーに振り回される6話を経て、10話ではアイスコーヒーと煎餅がおやつにでてくる。コーヒーにお煎餅、って……ゆうかは怪訝そうだ。「まあ、まあ。変わった取り合わせも結構合うものよ~?」とかえで。それにしてもアイスコーヒーなるものをひとはいつ発見してしまうものだろう(発見なんてしなくてよいぞ)。私にとってアイスコーヒーだけは「ない」と思ってゆずらなかった。熱いホットコーヒーをブラックでなんとかふうふう飲めるようになったころは、コーヒーと氷こそ信じられない取り合わせだった。はっきり言って馬鹿だと思っていた、アイスコーヒーとか考えたやつも。飲んでるやつも。
 砂糖ぬきでミルクだけ足すだけですべてが一変する、なんてことも知らなく。コーヒーになにかを足すのが邪道みたいに思えて、つまり試行錯誤して自分の好みに合わせるということ全般が「不潔」なように感じられていたころ。


 「顔」で言えばどうしたってOPのほのか、ではあって。吹き抜ける風、要するに視線……を真正面からもらい、あの困ったような、うれしさに内側から襲われているような顔は特権的だ。ひとが後々サードシーズンのことを思いだすとき、あのカット抜きには不可能ではないだろうか。と言っておいて、ひなた。


(画像1枚目:「ヤマノススメ サードシーズン」第6話「コーヒーってなんの味?」、2枚目:第10話「すれちがう季節」、(c) しろ/アース・スター エンタ―テイメント/『ヤマノススメ サードシーズン』製作委員会、2018年)

 べつにそういうシーンじゃなくっても、ひなたを見てると鼻の奥がつぅんとしたり胸がつっかえた思いにさせられる。たぶん髪型に強く関係している。いやほんとうに、「髪型」という文化に面食らうばかりではなくなったのはいつからだったろうか。特定のスタイルでなく、髪型というありようそれ自体に、なぜか多くの人間が髪型というものを持たされてしまうそのこと自体に引きこまれたのはたぶんそう遠い話ではなく、自分で振り返ってみてもごく最近のようでもある。なんて言っても始まらないね、ひなたすきでひなたのピッグテールもだいすきなの。


 あおいとひなた。肩を並べて夜景をいっしょに見ることからストーリーは始まりつつ、「同じ風景をいっしょに見る」という出来事の十分条件は拡張されていくだろう。その拡張は悲観的なものには必ずしもつながらないでいいものだけれど、ひなたの心のもやもやは拡張をさびしさの側から照らす気持ちと測り合うようになってもいる。どこかであなどっていたあおいの強い歩みを見せられたことも手伝っているだろう。雲から覗く天使の階段をともに見ることはできた。ただし互いにべつの子と、べつの場所から。軽い胸のざわつき。そしてすでにひなたが一度散策した池袋を、あおいが後日できたばかりの友人たちと遊びに行き、その様子をたのしそうにリポートしてくるとき、あからさまにふたりの間に時差が持ちこまれている。「すれ違い」という表現から来る軋轢の要請はまずはこうして段階を踏んで描かれる、とは受け取っておける。それをふたりの思いに丁寧につきあってかきこんでいると思う者もいれば、律儀で形式的な窮屈さをおぼえる者もいる筈だと思う(浴槽でベッドでひなたが思い悩むとき、髪はほどけてもいる、というように)。私は率直に言って少し後者の思いに気持ちがかたむいてしまうところもある。ただ、定義を固めようと厳しく考えこまずとも、「同じ風景をいっしょに見る」というときの、同じ、や、いっしょに、のグラデーションはそう狭めてとらえなくてもいい筈だ。でもどうしようもなく……やだ、って思いにこういうことはどこまで助けになるか知れない。もう気持ちを通りすぎたひとだけがこんなこと悠長に言える。ただなかにいるのは、ひなただからさ。私がもし自分で今かいてきたこと他人から言われたら、うるさい、さびしい!って怒る。


 隠しごとに対する転倒のくすぐったさを経由し、サードシーズンの最終回は宿りの場所を見つけにいく。こそっと耳打ちするときの覆われる手とは、他人に聞かれないために、声がもれないように、というネガティヴな要請以上に、たいせつなひとにこの言葉がいっとうよく聞こえますように、というお願いの実践としてポジティヴに交わされるものに違いない。ううん、どっちだっていい。早速行く場所ができたふたりは「これからも、なにかと忙しい」。


 「ヤマノススメ」シリーズの主題歌を手がけてきた稲葉エミの、歌詞における文法を思い返す。そこでは「地球」という把握のしかたが「世界」という照準合わせより先行してきたようだ。その把握は、このアニメ作品の肌ざわりを良質なかたちで支えてきてくれたと思う。世界でも宇宙でもなく地球。その山々、その道々。サードシーズンED、"色違いの翼"もすきなトラックだ。やや懐かしめのバンドサウンドにひんやりとデジタルな叙景美が差し挟まる、(悪い意味ではなく)目新しさに色目を使わずいいメロディを整合的に伝えたい杉下トキヤの作曲に対し、井口裕香阿澄佳奈が交互に寄り道しあうフロウにはわあ……!だし、それに続く十分息の長いメロディアスなカウンターパートもうれしい。
 「春はひばりと作戦会議/夏はバッタと一点突破/なんで地球が丸いか知ってる?」。エンディングアニメにおいて、なんで地球が丸いか知ってる?と右側で歌うあおいのアニメーションに、ひなたは左側でさかさに眼をつむっている。聞いているのか、眠っているのか。どちらもか。なんで地球が丸いか知ってる?はあおいの歌パートだ、という身も蓋もない形式上の帰結として、あおいが歌い終わるまでひなたははさみたくても口をはさめない。そんなことでも胸がいっぱいになってしまう。