「ケムリクサ」1~2話

 病と称されるしかじかの状況下にある者に、診断者がもし「あなたが今直面している《感じ》には原因がある。その原因とは研究の蓄積と現代の知見に照らし合わせれば、これである。こういった説明は、あなた本人ではけして知りえないし、太刀打ちできないことである、素人判断は病の癒えに対して害しかもたらさないのだから。それゆえ安んじてあなたはご自身の身を診断者、治療者の手に任せておくがいい」と伝えるとしたら、そうした風景にどこまでも欠けているのは病と称されてある当人の内側からの、一人称性でありその記述だ、とひとまず言っておける。そんなものは外から見れば一時的な幻想や妄想にすぎないと言うならば、その幻想や妄想は当人の内部でさぼらず現に機能してしまっている幻想や妄想でもある。言い換えると、たかが幻想、たかが妄想は、よくも悪くも当人の一人称風景においてはかりそめではない実効を生きている。三人称的処置、構造主義的療法に欠けている、欠けていくのは、そうした現に機能してしまってある幻想や妄想を当人の口からかき起こすことをゆるす現象学の一人称性だろう、とひとまずは思っておける。「私にそんなもの要らない、内面とか一人称性とか私の思いなんてどうでもいいから早く治してくれ、この苦痛をどこかへ持ってってくれ!」とはねつける拒絶さえ、そのひとの一人称から強く訴え起こされるちからをえている筈だ。やめろと知ってもらうために、やめるなと知ってもらうために。あるいは/ある日は、知ってもらわないために。


 「なんだか眼がうるんで、心臓がどきどきするんだけど、なんだろう」「それは……風邪だね」というコメディに驚かない。恋かと思わせてただの風邪というあまりに古めかしいコメディのなかでスケッチされてきた恋の条件は、こうして身体的な表出、からだの異常に還元されがちでもある。風邪と恋を同一の外延と誤認させるところに持っていくため、共通の性質が恣意的に挙げられることにもなる。眼がいささかもうるまない恋、心臓がどきどきせず平静に落ちゆく恋もあるという可能性がそこでは忘れ去られている、ということが問題なのではない。それにコメディなのだから流せばいい、本題はその先にある、という訳もある(しつこいとうるさく思うけど)。
 ひとの情動や心の動きを振る舞いや傾向性に還元する行動主義に対して、こうした恋に対する態度を表出主義と仮に言っておけば、ひとが恋に落ちることは自分のからだがどう具体的に異常かをたしかめることで確認できる、もしくは確認できたと錯覚できる……ということになる。からだが熱くなる、視界がまぶしく感じられる、とうとう。「ケムリクサ」のりんは、今のところ恋という概念を知らない世界の住人がそれを経験しながらまだ自覚できていないキャラクターとして受容されているようだ。それは性急すぎる、と正面からは言いづらいほど台詞や文脈や絵や身振りの目配せ、「自覚なしの恋」というサインはおはなしのなかへ目立ってかきこまれてしまってもいると思う。りん本人が推測するように毒のせいかも知れないじゃん……とか、そんなに恋だ恋だ言うなようるせえな、とか素知らぬ体で言うことも、どこか、この作品を観ている私自身をごまかすことになるだろう。こうした作品からの目配せには、魅力と同じだけのわずらわしさがどうしたってついてまわる。ついでに言うと毒を受けることも恋に落ちることも両立するものだ(現に数多くの作品のなかで。ロマンス的にも、また物理的な因果関係上でも)。瓦礫の地理を自由に伸びていく蛍光グリーンのアイデアや、かけあいのすてきさ(2話冒頭「なにー!」に言葉を返さず、すっとりんが立ち上がることで生じる言葉の遊びあるスペースとか)にいいものがあると思って見始めた私としてはそういう心境だ。りんの赤面がわかばから見えないところでたしかめられ、(私の見逃しているのでないなら)わかばの視界にはまだりんの赤面が見えていないことは、正確ではある。
 コメディの枠組みを利用するからといって、それが思いの真摯さをたどることに反するとはかぎらない。この作品もそうでありますように……と思いながら、こうした風景のなかでどうしても欠けていると思えてならないのは、りん当人の一人称からの声、他人には訂正不可能な内側からの思いなしだと思ってしまう。たしかにりんは自分のからだの異常をりつに語って聞かせる。当人のくちから語られるそれは、しかし私にはまだ自分の経験に対して三人称的/観察的に戸惑いながら語っている言葉に感じられる。それはまだ当然のことだろうし、りんの言葉を疑っている訳ではぜんぜんない。こうしたことを感想としてかいている自分自身がそれこそ性急な筈でもある。だから間違ってるとか悪いと言いたい立場からかいているのではない。それでも、「自覚なしの恋」という半ば邪推に基づく枠組みをあえて受け入れてみるとして、それははたしてこうしたしかたで開始され、提示されるものだろうか……という迷いとまだ折り合いがつけられない。これは、難癖に映るに違いない。ただ、「恋に落ちる」ということから、それに伴うクリシェのように身体的な表出を抜きだしておいて並べ立てると、ひとはそれを「自覚なしの恋」だと推測してあやまることがない……ということが、はたしてどこまで「いい受けとめ」「自然な受けとめ」となるのかも判らない。
 もしもほんとうに恋という概念がない世界の住人が初めて恋を経験したとして、それは、もう少しこちらに対してさえ不可解で、納得しがたいものとしてあらわれうるのではないだろうか。またはべつのほうから言うと、恋という概念が仮になくとも、胸をどくどくさせる対象に対して「こいつは胸をどくどくさせる」という観察的な記述以上の直接的な思いがすでに本人の心にも芽ぐむものではないだろうか(というか相手への直接的にわき上がるそうした思いを欠いた恋というものがよく想像できない、という私自身の限界もある)。結局、最後まで気がかりとしてつきまとうのはそういうところだ。無理にねだりすぎているだろうか。それに、けしてそうしたいのではないのに、りんを責めているように聞こえてしまう。まだ歩きはじめたばかりのひとを背中から乱暴に押しやる、それは私が気にしていることだ。もちろん、りんの「独白」などを求めているのではまったくない(それは下品な期待だ。といって下品に期待するのが悪いとは思わない、私はこのアニメ作品にそうしたいと思えないというだけ)。


 やはり、かいてきてたんなる難癖のように思えてきてもいる。恋という概念に振り回されているこちらの滑稽さこそがこうした文から浮き彫りにされてもいる筈だ。私は恋愛至上主義者が嫌いだ。誰もが誰かをすきにならなくてはいけないのだとしたら、私は抵抗しそうだ。それだけにアレルギーでかく筈のなかったことまでかいてしまったのかも知れない。にもかかわらず、でもあなたを嫌いにはどうしてもなれないと思うこと、そして誰かをすきになると愚かだと思っていたものがゆるせるようになりだす、そうしたことも同じくらい今では受け入れられる……と思う。こんな私の一人称ではなんの足しにもならない、にしても(この「つけたし」はなかったほうがよかったな?)。
 いやしくもそれが散文であるなら、感想であるならば、かきはじめたときとかき終えたときでは、自分の気持ちが、意見が、変化していなければならない、と言っていた。それは「冒険」という言葉の最良の定義に今もなっている。今日私がかいたことがいつか、はきちがえた、間の抜けたものに見えてほしいと思い、また、いつか読み返したときにもたしかにこのときそう感じたということはほんとうだった、ということは自分に伝わるといいのに、とも思う。ひとは「ケムリクサ」に登場する色やモチーフをめぐって議論しているようだ……。私は、つまづくべきでないところでつまづいている、実際そうなのだろう。大仰になることなしに、確実にしずかに受けとめられたら、と思う。