ムハンマド、我がお友達よ 世界に打ち明けるときだよ それがひとりの女の子であったということを君だってよく知ってる ベツレヘムに帰ってみよう そうあの宿命の日に 彼女が磔の厄介になっていたころにね 彼女は資生堂の赤いのを引いていて 私たちはその傍らでお茶会をしたんだった どきどきして──どきどきして──大層私はときめいたものだけど/Muhammad, my friend/It’s time to tell the world/We both know it was a girl/Back in Bethlehem/And on that fateful day/When she was crucified/She wore Shiseido Red/And we drank tea by her side/Sweet sweet/Used to be so sweet to me(試訳:Tori Amos "Muhammad My Friend" https://youtu.be/Ur28B7ls71k)★トーリ・エイモスを昔聴いて以来、私のなかでイエス資生堂の口紅を愛用しています。べつにわざわざ鮮血の比喩にしなくてよいと思う。女性にかきかえることで女性という供儀も新しくかきこまれるとしても、私にはどうしてもこの曲が嘆いてるとは感じられなくて、躍動感ある弾き語りのスタイルには踊りだしたい、朝焼けの強度でかきこまれたメロディーがあふれて見える。たしかにポップミュージックでは主題を曲調が裏切ることの効果というのもあるけれどこの曲に関してはそうではないと思う。挑発性はあっても復讐ではなく、冒険による強度だと思う。★When she was crucified~を私は愚直に彼女は実際に十字架にかけられていてしかも不敵に資生堂をつけたまま(それを見守りながら私たちはお茶を飲んだ)、と思いこんでたけれど、今日あらためて聴いているとイメージがまた変わって、彼女自身もお茶を飲むのにくわわっていて、お友達に取り囲まれて身動きできないことを、磔みたいだね、と茶化して言ってる風にも感じられてきました。Back in Bethlehemも「ベツレヘムというあの時代へ」とひとまず聞こえるけれど、実在のその土地に帰った主体が「彼女」だというようにも聞こえるし、私にはニュアンスがちょっとむつかしい。ほかのひとはどう聴くんでしょう。★「神の女性としての貌ってどこ? 女性的なるものの細分化/散り散りになったフェミニンが、なんだか私の興味を強く呼び起しはじめたんです。"Muhammad My Friend"についてですが、そこでは割礼を受けた神のなかに女性の場所を見つけだそうとしました」(1996年のインタビュー、http://www.yessaid.com/lyrics/1996boysforpele/08muhammadmyfriend.html