「どろろ」(2019年)1~4話

 視覚も聴覚も嗅覚も発声も奪われた百鬼丸というひとのありように対し、ナレーターが「だが、百鬼丸には生まれながらに視えているものがある。魂の炎、とでも言うほかない。重要なのはその色だった」と言葉を添える(2話)。その視えに対してでは画面がどう取り組んでみせるかというと、端的に言ってそれはサーモグラフィー/レーダー映像風のものとして視聴者の前に現れる。このサーモグラフィー/レーダー映像という遅ればせなテクノロジーからおそらくは引用されてきた描像は、どうだろうか。つまりそこで「視野」の背景は、作品の生命観と帳尻を合わせるかのように「無明」の黒(……)で塗りこめられることにもなってしまうし、人物や虫や動物、そして妖怪や化け物はおのおののシルエットをもって単色に浮かんでみえる。自分に対して無害か敵対心をもっているかでそれらは百鬼丸には色分けされて視えるのだという。百鬼丸の一人称に足を置いた「視野」そのカメラアイを絵の上から述べようとすると、画面はサーモグラフィー/レーダー映像のようになってしまうということはそこで、どうだろうか。視覚を奪われたものの「視野」を見える者の側のために示す際にこのようにテクノロジーが引用されるということは、なんだろうか。ただし、私自身こうして使っている「視野」という言葉が百鬼丸というひとにおいて正しく言い当てているとは思えないにしても、そのシルエット化された事物たちの環境描像を「翻訳」ないし「表現」だ、と言えばそれもまたなにかを取り逃がしてしまう。


 1971年版の「ジョニーは戦場へ行った」で、視覚も聴覚も嗅覚も発声も両手も両足も奪われ、ベッドに横たわった主人公・ジョーは、父の幻影から「Use your head(頭を使うんだ)」という助言を聞く。幼いころにおぼえたモールス信号はまだおぼえている。頭を使う。そうだ、頭を使えばいいんだ、頭を、自分の頭を──そしてあの歓喜にあふれた声*1
 「翻訳」は複数のレベルにまたがる。「頭を使え」という紋切型を文字通り聞きなおすこと、モールス信号を自分の頭によって打つこと、自分の頭の激しい動きをメッセージとして他人に理解してもらうこと。ベッドの上で激しく首を振るジョーの頭をこのとき、「単なる患者の筋肉の痙攣的反射ではなく、なにごとかを意識的に伝えようとしている」とただちに了解できるのは作品をここまで観てきた気楽な視聴者だけだ。観てきた者だけがかんたんに受け入れてあやしむことがない。ジョーのそばの者には(そして毎日のすべての病床のそばにいる者にも)、そうでないだろう。看護師の臨床はここで終わりのないアナグラム研究に没頭していったフェルディナン・ド・ソシュールの心と、事故のようにもすれ違う。これは痙攣か。それともいったいメッセージなのか。いや痙攣じゃない、このひとはなにかを伝えようとしている……という看護師の判断は、寛容の原理ドナルド・デイヴィドソン)などというしろものではない。どれほど視聴者にそうは見えないだろうとしても、私には看護師のそれは決死の確信だったように思える。文字通りそれを解さなければジョーの「伝え」の死が決まるという意味での。


 「どろろ」のすべてがいい訳ではないし、すべてを肯定できる訳でももちろんないけれど、2話での腕・手・掌を借りた交話シーンなどは鈴木梨央の「ど、ろ、ろ」という声の肌理もあって、届き、残るものだった。百鬼丸の手をとり、どろろは自分の耳にあてる(いや……頬?)。人体を借りた古い電話機の復活が感じられるだけに、百鬼丸の大きな手はどろろの耳だけでなくその小さな口元にもいくぶんか達している、と思いたくなる。けれど、その境界画定はどこまでもあいまいだ。こちらから声を吹き入れるための機械のように手を借りながら、むしろ耳の側へ百鬼丸の手を持ってくるしかたに、そしてまた返答をせびるために百鬼丸の手を今度は本人の耳のあたりにあててやるしかたに、軽いめまいが生じる。電話だけでなく、おそらく聴診器という感触もある。要するにスキンシップという、あまり実りあるとも思えなかったしかたが、複層的に私にいろいろなものをここで打ちかえしてくれている。


(「どろろ」第2話「万代の巻」、(C)手塚プロダクション/ツインエンジン、2019年)


(「Johnny Got His Gun」、(C)ALEXIA TRUST COMPANY LTD.、1971年)

 百鬼丸には自分の声が聞こえていないし見えてもいない、しゃべれもしないことをどろろは重々承知している。一方でどろろは飽きずに百鬼丸に話しかけ、誘い、手をとり、眼前で身振りを使い、自分から話すようせがみさえする。自分がなにを寝言でもらし、飛び起きようと、百鬼丸には聞こえてもいない訳だ。にもかかわらず、やはりどろろは焚き火の前で夜通し起きて自分のほうを向き続けていたであろう百鬼丸の顔を見れば気まずさや、気恥ずかしさをおぼえてしまうだろう。それをまた手がかりに話しかけはじめてもしまうのだし、おやすみー、という一言すら忘れられることがない。まだつきあいが浅く、百鬼丸というひとのありようを忘れがちだから、というのもあるだろうなのはたしかであれ、どろろがそんな風に百鬼丸につきまとってくれるだけで、ずいぶんと違ってくれる。百鬼丸が聞こえてなかろうが話しかけるのを「やめられない」、しゃべれないと知っていようが自分から話してくれるよう求めるのを「やめられない」。そのやめられなさは、どろろの元気な忘れやすさに多くを負っている。

*1:この映画では咽喉と口を用いた発声を奪われた主人公の声、作品内の他人には聞こえない筈の声はしかし、ほかでもない視聴者に対しては「権利上」ほかの出演者の声とまったく同等の録音レベルを獲得している。