「けものフレンズ2」2~3話

 3話で「海」は早すぎる。画面の前の人間はそう危ぶみ、キュルルたちを乗せるモノレールはそんなことを気にとめない。


 見たいのは、スケッチブックにキュルルが絵をかいているまさにその時間だ。それはキュルルが絵をかくひとだと知れたときから抱いていた。今のところ筆記具を手にするシーンもある。己の絵に新たにかきくわえた絵を知り合ったフレンズに渡すシーンもある(キュルルは絵を読むひとでもある。おそらく過去の自分がかいた絵を、目新しいもののように)。まさに絵をかいているという、おえかき中だという、そのシーンだけが沈黙を続けている。私はそれが見たいのに、見せてほしいな。訴えたい。それとも、秘められたままキュルルは行ってしまう?


 木野日菜という声優を「けものフレンズ2」は少なくとも私に教えてくれる。バンドウイルカが3話のピークを示すべく冒頭をジャンプする。海と言えば──空中でしょ?と。ボールにくちづけながら「ちゅっ♪」と声にもわざわざだすこと、それは果敢さと呼ばれないだろうか。


 海底における歓声の出現の魔術性は望むならばきっとよりショッキングにも、よりスキャンダラスにも演出することはできたのだろう。そうしたほうがよかったのかどうかは判らない。といってこれで正解なのかと言うと容易には頷けない。惜しい、と言うのもためらわれ、なにかわだかまりを残すという意味ではよかったのかも知れない。一方、画面もまた絵自身の欲望を引きだし、キュルルとサーバルが海底を覗きこむシーンで背景に真上の日覆いの青と白とを証言として残す。


(「けものフレンズ2」第3話「うみのけもの」、(c)けものフレンズプロジェクト2A、2019年)

 これはただし、絵自身の欲望としては控えめなものだろう。


 ところで「けものフレンズ」の「攻めてる」劇伴は、私にはSTGとして聞こえた。その戦闘的なビートの愉しみからはモダンな同人STGがたちまちに想起されたし(RebRankの「RefRain」やCross Eagletの「REVOLVER360」、エンドレスシラフの「∀kashicverse」などの作品群を思い浮かべている)、それがひとつの新鮮な快楽を分け与えてくれていた。そうしたSTG感覚については、たつき監督が「ケムリクサ」のほうに引き継いでくれたと思う。しょせん印象論ではあるにしても、そうした異物としての劇伴が後退した結果、「けものフレンズ2」では代わってRPGに親和的なニュアンスが前面にでていると感じている。1話からカルガモという親切な土地の案内人が現れ、みんな一列に並んで歩くよう教えさえした出来事に引きずられすぎているのかも知れない(「タオルケットをもう一度1」においてマップタイルを離散的に歩くしかないRPG内キャラクターの規則が雄弁にかきこまれてしまったように、キュルルたちも「パーティーたるもの、一列に並んで」という歩行上の形式を少なくとも一度は無視できない)。2話での竹林のなかの迷いや、3話でのご褒美で動く子たちも、メルヒェンの説話的条件というよりはやはり、RPGというジャンルがストックしてきたイベントという名の資源へ作品が心を寄せた結果として私には伝わる。ここになにか正当性のようなものを要求できる話ではないし、そう決めつけたいのでもない。
 それにしてもカルガモは「これから旅を始めようとするひとたち」と、出会ったばかりのキュルルたちを看破して言っていなかっただろうか。まだキュルルたちが旅などという言葉で自分を指し示していなかった筈なのに? するとカルガモは案内しようとして、うっかりとも、キュルルたちを思いがけず旅人にしてしまったのではないだろうか。


 眉の演技、に隠れた口元の機微、として2話は受けとれるだろうか。モノレールの窓には白く亀裂があった。このひび割れをいつも、植物の根や枝の残存と見間違える。どちらにせよ長い時間の通ったあとではある。そうして、窓の表面に入れられたひび割れがうかつにも蛇行する川のようにも見えてしまうのは、窓がその向こうに景色を置くものとして自分を定位していくからだろう。絵自身の欲望が扉を閉じるころ、私自身の欲望がその扉を開けかえす。


(「けものフレンズ2」第2話「ぱんだとぱんだ」、(c)けものフレンズプロジェクト2A、2019年)