★「怒られるのが怖くて言い出せなかった・・」という言葉は今もって、救われてなどいない。管理不徹底や対応のミスから生じた事故・事件をめぐるニュースでそんな吐露が流れてくるとひとは、いや、怖いとかそういう問題じゃないでしょ、仕事でしょそれがあんたの、ひとの命を(国民の税を、市民の金を、最低限の社会常識を、etc)なんだと思ってるのか、と弾劾してためらわない。★率直に尋ねてみたい、「怒られるのが怖くて言いだせない」という言葉を、そのひとたちこそなんだと思っているのだろうか。ひとりの人間をそんなになるまで精神的に恫喝し委縮させる特定人物が実在するということを、ひとりの人間がそんなになるまでおびえきってしまう場所が実在するということを、そのひとたちこそ、なんだと思っているのだろうか。★「怒られるのが怖くて言い出せなかった・・」という当事者たちから絞りだされた言葉はやはり、多くの有能なのだろう「大の大人」には真剣に受け取られていないし、そもそも最初から受け取りたくないのだと思われる。「怒られるのが怖くて言い出せなかった・・」などという「大の大人として」「恥ずべき」姿が日本にあることを誰も認めたくないのだと思われる。自分なら「怒られるのが怖くて言い出せなかった・・」などという事態にはけしてならないし、この自分ならば周りにもそうさせないと胸を張っているからだと思われる。しかし、個人という人間主体があり、「このようなときには、こう振る舞うべき」という命法的行動指針を二三示してやれば、健全な者ならばみなそう動く筈と素朴に考えている行動と脳に関する「直結厨」でもないかぎり、「そうすべきなのに、そうできないで苦しむ」時間、そしてまた実際に環境的に配置される具体的な人間関係によって「怒られるのが怖くて言いだせない」時間など誰にでもめぐってくると思うけれど、そんな臆病な時間は「大の大人」の自分にはないとでも言うのだろうか。心に一度決めてしまえばそれだけでひとはなんでもスムーズに行動に移せると言うのだろうか(ソクラテスはアクラシアを認めなかった)。★ここで多少の理解と親切心を発揮する者が「怖いのは判るよ」と言い、「でもね、そこは勇気をもって・・・」と繋ぐとすれば、その者もすでに勇気=マッチョの側から相手を見下ろして歌っていると感じないだろうか。不誠実だと言っているのではない。ただそれはすでに「怖いのは判るけど勇気をもっている」側、すでに「できている」側、すでにそう「言える」側からの威圧として響かないだろうか。恐れない勇気が既得権益なのではなく、そんな勇気を所持しても構わないという社会的な位置に自分がいられるということこそが、相手に較べて既得権益なのだと考えたことは一度もないのだろうか。端的に、すでに委縮してしまっているひとは、委縮せずにいられた者からの助言によっていっそう委縮してしまわないだろうか。そんなことを一度も考えないだろうか。それとも、「そこまでぐだぐだ言うなら考えてやる必要などもうない」だろうか。★「怒られるのが怖くて言い出せなかった・・」という言葉とただ同じ位置に降りてみることをいったい何人がしているだろうか。助言せず、叱責せず、見下ろさず、けれど無視だけはしないでただ受けとめることを、いったい何人がしているだろうか。誰もが知っているように(と私には思えてならない)、これまで起こってきたし、今も起こり続けている「問題」の驚くほど多くの部分は「怒られるのが怖くて言えない」という層を主要な肉として生まれてもいると私は思う。「怒られるのが怖くて言い出せなかった・・」という言葉は、誰からも救われてなどいないのではないだろうか。


★こうしたことをかきながら隣接して考えていたのは筆名という問題だ。重なるというではないけれど、とくに詩歌の世界での話だ。本名でかくことを「勇気をもって」選択した者が、筆名を選択している者に対してとりがちな特有の、不愉快な見下ろし方(「怖くても、本名でやったほうが絶対にいい」)(……)の話だ。以前、「現代詩手帖」の投稿欄で稲川方人が筆名を侮蔑してみせたことがあったし、佐々木敦による岸田将幸へのインタビューでも筆名は主に「勇気」の観点から話題とされていたように私には思える(筆名から出発しつつ、本名へと「勇気をもって」帰還しえた者として)。稲川方人の詩にも、岸田将幸の詩にも、胸打たれながら読んできた私がそこに失望した訳ではなく、むしろ稲川方人岸田将幸というひとならそう言うんだろうな、と思えもした。敬愛は傷つかない。でも、私は頷かない。その筆名批判における信念の濃度と誠実にゆさぶられながら、枡野浩一にも頷かない。「インターネット」かつ「筆名」という失望の二重表現として映るだろうここで、自分自身として、私は頷かない。稲川方人のそうした発言に対し、ひとりの女性詩人がTwitterにかきつけていた投稿ひとつの小さな抗議は、いま、誰も思いださないかも知れない。私はまだ抱えている。それは率直に、主婦として生活を続けながらかくことも続けるためには本名で活動するのは怖いというものだった。自分はまだ死ねないし、死なないままかくこともやめない、ということだ。近隣や職場や家族からの噂という最も速く近い権力をかわすため(それでも不安はある、筆名でやってようと、いつでもおびえはある!)、それでもかく場所を自分のために手放さないために筆名が要るんだ、というしずかで意固地な祈りの筈だ。ところで今や勇気=(本名)=マッチョはそれに対してこう言うのではないだろうか、「怖いのは判るよ、でもね、そこは勇気をもって・・・」。