「ザ・ブルード/怒りのメタファー」「デッドゾーン」

 デヴィッド・クローネンバーグの映画にいる役者は誰もが「打ち解けない」顔をしている。少なくともある時期までの作品のなかではそう思う。なにかが起こる前から、すでに役者たちはコクーンや粘膜の巣から救出されてきたばかりのような顔をしている。俗悪に、顔差別をして言うならそうだ。なにもジャンルムービーの記憶にことさらなすりつける訳ではなく、コクーンや粘膜の巣から救出されてきたばかりのような放心を役者は顔にたたえ、顔でたたえ。ひたむきでまっすぐな放心の努力がある。そこが私には優しい、と思いたい、と感じてみることができたいのだけれど。


 「ザ・ブルード/怒りのメタファー」(1979年)で「精神に問題がある女性」という、あからさまに「問題がある」台詞がでてくる。ではその「精神に問題がある女性」──作中での名はノーラ──はどこにいてなにをしているかというと、ラグランなるあやしげな医師の運営する精神科施設=閉鎖系で治療を受けている。医療施設の常として患者の移動の自由は剥奪されてある。他方、移動の自由を謳歌している者がいる。移動できないノーラの眼の前で、移動の自由を酷使している者たちがいる。
 作中で何度か差し挟まれるラグランとノーラの「セッション」場面において、ラグランの顔面は生きたマジックメモのようになり果てている。そこには他人の顔がかきこまれ、読みとられ、抹消されていく。ノーラ(サマンサ・エッガー)の見開いた視線は、ラグラン(オリヴァー・リード)のあの梃子でも動きそうにない山岳的な顔面の上に父母や娘や夫の顔をかきこみ、読みとりにいく。患者=ノーラの欲動の水路を探り、また必要があればその水路を医師として訂正すべく、ラグランが話の水を向けているのは間違いない。しかし他方で、ノーラの側もまたラグランを利用して己の欲動に働きかけ、水路の方向と水の質を絶えずたしかめようともしているだろう。
 こうした「セッション」によってノーラが父母や夫と対話を続けてみせる様子を観てきただけに、終盤、ノーラの実際の夫・フランクと彼女が再会するシーンに私は驚く。ノーラは、いきなり現れたフランクに対して、治療中は面会できないんじゃなかった? 夢じゃないかしら?などともらすものの、ラグランではありえないフランクの顔を、それもまた自分の夫だと同定して誤ることがない。ここになにか解きほぐしがたい感触が残る。もちろんノーラは、自分の治療目的で行われる「セッション」の意味を知っている。また、「セッション」外ではラグランをほかの誰でもないラグラン医師という造型として認識もできている。だから「セッション」を通してのみ、ラグランの顔はフランクとして振る舞えるようになってはいる……。たぶん不自然があるのだとしたら、「セッション」にはたとえば催眠術のような開始の合図がどうも見当たらない、という点から発しているのではないか。まるでノーラとラグランが会話を始めれば、ただそれだけでラグランはフランクに「なる」ことが可能になっているかのようだ。Everything you're looking for / You can find in me(Mr.Big "Daddy, Brother, Lover, Little Boy")
 顔に顔が応えること(「スキャナーズ」、1981年)、連続性という「からだの夢」に離散的な切れ目を引くことで空間的な飛び越えもまた叶ってしまうこと(「ザ・フライ」、1986年)、そしてそれらに先行するこの作品という流れでデヴィッド・クローネンバーグの「移動」に対する肌触りらしきものを観てくると、たとえば「コズモポリス」(2012年)がどうにも後退してみえてしまう。個室劇の主な舞台が車内だからリムジンが閉鎖系なのではなく、フィルム自体が役者の顔から移動の自由を剥奪するオーナーとして振る舞う、というどうにも古典的なニュアンスに対して、ほんとうなら離散的に切れ目を入れたそうで結局は退屈な言葉群がつきあいすぎていたように私には思える。


 「打ち解けない」顔の露呈は、今まで観てきたなかでは「デッドゾーン」(1983年)が最も純度が高いように感じる。どうもこの監督は、一般参加者の視線のもとにPsychic Powers, 超能力が公開の場で明かされるシーンに執着があるようで、「デッドゾーン」でもジョニーが記者会見を行う場面があった。ひとりの挑発的な記者の男の手をジョニーは握る。秘密か、予知か、ともかく記者の身にまつわるなにごとか明かしえぬ映像がいま浮かび上がるかと思われる……。と、うろたえた男は乱暴に振り払い、超能力発現のシーンは中断される。ジョニーは「化け物」呼ばわりされ、その侮辱の模様は、実況中継を通して家庭のテレビで見守っていたジョニーの母親に強いショックを与える。彼女は倒れる。
 超能力が現に作動しようとしていたのは記者会見場でのジョニーと記者との間の筈だった。映像はしかし、そう思うことをゆるしてくれそうもない。画面はむしろジョニーの超能力が一足飛びにジョニーの母親にまで伝達してしまっているように推移する。端的に、母親がジョニーの超能力「によって」倒れたように見えてしまう。どうしてだろうか。不発に終わった超能力の志向的な対応物を、直後に現れるシーンで補完してしまおうという陰気な貧乏性のためだろうか。そうかも知れない。倒れたのが主人公の母親であることも、それをますます後押ししているのかも知れない。「超能力がひとを不幸せにする」という文脈の駆動をシナリオから先んじて私が受け取ってしまうから、というのもあるだろう。それでも母親が倒れたことにはどこまでも超自然的な理由も原因もないように見える。そして、それでも、母親はジョニーの超能力「によって」倒れて見える。
 「スキャナーズ」同様、おそらくここでもカメラが悪さを働いている。ここまで取り上げたシーンをあらためて観てみよう。すると、カメラは「ショックを受けている母親」と「騒然とした記者会見場」を交互に映しているのが判る。記者会見場・母親・記者会見場・母親。二度目の切り替えで母親は眼鏡を外し、震えながら立ち上がる。カメラは次に切り替える。映るのは今度は父親だ。母親の背後で同じように座ってテレビを見ていた彼の視線がしずかな驚きのように昇りにいく。その視線の動きの質を観者が察するより早くカメラはまた切り替わる。つい今ゆっくりと立ち上がりはじめていた筈の母親は、すでにここでは天井を見つめるようにつぶやきながらくずれ落ちていく。記者会見場を映しだすテレビ画面がそして最後に戻ってくる。
 プロットの水準にしろまたストーリーの水準にしろ、「母親に超能力が伝達されている」と確証させるものなど元よりここにはないから(私もそんなことを思っている訳ではない)観ている際の感覚から語らせるしかないけれど、思うに、ショックを受けゆっくり立ち上がっていく母親の姿が、ふたつ先のカットで戻ってくるとすでにくずれ落ちはじめている、その時間を急速に飛んでみせた痕跡に「超自然性」は多くを負うのではないだろうか。一瞬カメラが眼を離しただけで……ではなく、一瞬カメラが眼を離したからこそ、まるで母親のからだは先ほどとはすでに違う意味になってしまっているようだ(もっともこうした切り替えによる効果も操作も、それ自体は映像上の離散性をマークするためのよくある技法ではあるのだろうにしても……)。あまり多くを読みこむべきではないと判りつつ、画面の上にいつなにが「戻ってくる」のかをあてこむことで、失敗した超能力はカットを通じて母親の倒れの直接的な因果的源泉のように見させてしまう。


 「デッドゾーン」は「スキャナーズ」と較べて絵的に豊富だ。少なくとも豊富になりえる筈だったし、事実そうでもある。「デッドゾーン」では超能力を行使する相手によって予知した際に見える映像が違う。だから、その映像を逐一再生することで画面が単純に賑々しくはなるからでもあるし、「手を握る」という条件を利用して視聴者に対しトリックをしかけることもできるからだ(握手による予知が妨害されたり、手を握っても予知映像を見せないでいたり、超能力をしのばせた手に注意を引きつけた上でべつのことをしてみせたり、とうとう)。「スキャナーズ」では顔に顔が応え続ける。それに較べれば、「デッドゾーン」はその画面上、より複雑なカット間の取り引きが見込めるようにも当初思える。にもかかわらず、この映画は「スキャナーズ」よりはるかにカットの連接性において一辺倒なのは否めない。かえって上にかいたような母親をめぐる場面──超能力が不発に終わるシーン──にこそ最も強い因果関係の捏造、その痕跡を見つけてしまいそうになる。

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(「デッドゾーン」、(C)1983 Dino De Laurentiis Corp、1983年)

 ところで映画冒頭のジェットコースターの、なんと言えばいいのか、質素さ……はなにか胸打たれるものがある。時代的にこうしたものがまだまだ主流だったのだろうか。テーマパーク史にくわしくない私は知らないけれど、いやでも私も、こうした木造のコースターに乗ったことある、と記憶をぼんやりさせた。横に乗っている恋人とともに、コースターの風を切るスリルを楽しんでいたジョニーが急に顔色を変える。眼をつぶり、頭痛に悩まされるように手をあて、コースターの座席につきながら顔はさまよう。映画を観終わった私に今このシーンはこんな風に映るものだ。ジョニーはコースターの速度のなかで、迫りくる風のなかで、デヴィッド・クローネンバーグの作品に参列する役者たちの膨大な「顔の努力」、その首の痛みとすれ違ってしまっている。過去から未来から来たむち打ち症をジョニーの顔は考えているのだと思う。