食べかけの食事を捨てることにももちろんグラデーションがある。強迫観念、拒食症といった局面から、なんとなくや気分で捨てる局面。加工食品なのか家庭でつくられたものか、料理店で皿に残したまま立ち去るのか公園のゴミ箱に放り投げるのか。そして食べ物を食べかけのまま捨てることへの感情の振れ幅もさまざまな筈だ。だからまとめて一様に言うべきではないけれど、それでも、私は食べ物を平気で捨ててしまう子たちの側につくと至急言っておきたい。まず私自身食事を捨てているから。お金がないから食事の多くは職場からでる廃棄弁当を恃みにしている。そこから食べられる分をなんとかかすめとり、そのほかを捨てることで食事を毎回乗り切っているから。こうかくとまるで私が食べることを作業と思っているようだけれど、「こんな食事」にもやはり愉しみはある。絶対にある。一方でこうした食事をけしてゆるさない、嫌悪しているひとがいることも判っている。そうしたひとはそこらじゅうにいる。だってみんなご飯の話になると急に眼の色を変えるでしょう(被害妄想?)。しかじかの分野では立派に「ラディカル」な振る舞いを見せるひとたちも食に対してはものすごいモラリストに変貌するし(被害妄想?)。
 豊かな食生活、食事によって幸せになっているキャラクターをマンガやアニメで見るのがすき。でも、マンガやアニメでなくてもすきだ。ひとの食事の写真や感想も、私自身はそうなれないから胸はいつも少し痛むけれど、相変わらずすきだ。でも豊かな食生活を知っているひとたちは、こちらをけして同じような視線で見ることはないだろう(これは被害妄想ではない)。食べかけの食べ物を捨てる、最後まで食べきらない、そんな食事は「乗り越えられるべきもの、改善されるべき悪しきもの」だとみんな思っているのではないだろうか。ここで「もちろん拒食症とかそういうどうしようもない理由があればべつですけど……」という声が聞こえてきそうだ。では、納得がいく理由があれば、納得がいく理由によって、捨てる食事もそのひとびとにとってはスムーズにゆるせるものになるということだろうか。もしそうだとしたら、ゆるせる、とはなんだろうか。



 去年読んだこの発言にずっと苦しんでいた。この意見がべつに人間のうちでも特殊なものではないだろうだけに。また、この書き手の意見のすべてに腹が立っている訳ではない。自分に都合よく保身もしておけば、他人の前で食べかけの弁当を捨てることは私は控えるようにしているし(そもそも食事はひとりだ)、ここでかかれていること、主に食べかけの弁当を捨てることへの苦手さ、捨てることを平気に思うことへの違和感を理解してさえいい、同意してさえいいとも思う。けれどこの「食べものを平気で捨てるじぶんを好きっぽいのがこわ」という最後の文体への意志表出に私はどうしてもこだわる、嫌悪をもって。この言いぶりはなんなのか、ということだ。「こわ」とは……いったいなんの口調なのか、とほとんど怒り狂ってこだわる。速やかにぞっとするものから身を離すこの身振りのあてにされてあるのが「食べ物を平気で捨てる子」「そんな自分を好きっぽい子」ということらしいし、繰り返せば私だってけして頷けはできない貧しい行為なのかも知れないにせよ、この「こわ」の肩を持つのもごめんだ、と考えている。