森本平について

★自分だってたかだかインテリゲンチャでしかないことを自覚してるから、というところが小泉義之の文を最後のところで信頼するひとつにはある。だって理論家や批評家や大学教授のひとたちってみんな自分を下から上を撃つ抵抗者に位置づけたがるもんだし、せいぜいよく鍛えられよく練られたアジテイターを引き受けこそすれ、まさか自分もたかだかインテリだとは認めたがらないじゃない? 嫌なやつ役ならみんなよろこんで引き受ける。刺激的な人間、挑発的な人間……。しかし知的に富める者の役、エリートの役はだめだ。みんな忌避するでしょ?って。小泉義之はインテリならインテリらしい腹のくくりかたで仕事をしろ、という構えで自他ともに見つめてやっているように少なくとも文からは伝わる。森本平もそう、とはいまだに思いきれないけれどそうであってほしいなとはまだ思っている。勝手な理想化ですけれど。★森本平はどうしたってインテリだ。そうでなくてはどうして『個人的な生活』のあとがきで、〈良い〉の欄には正岡子規、〈悪い〉の欄には正岡子規と、鉤括弧=権威づけの有無で同じ名を操作してみせる知性が現れるだろう。悪辣を歌ってみせたい思いが結局は加害のルポルタージュと手を切れなかった失敗作:「ロンサム・セックス、ジェントル・レイプ(もしくは亡国)」のうちにさえ春日井健や寺山修司をこれみよがしに引いてしまう、その短歌読者への健気で悲しいほどの気遣い(枡野浩一森本平評が思いだされるところだ)。そしてまた、さいかち真は間違って解説をしていたけれど(ただしその間違いの結果引かれたブログの空転したアジ・饒舌は森本平の気風に「合っている」、https://sunagoya.com/tanka/?p=13444)、アル・ジュールゲンセン……とはもちろんMinistryのリーダーのこと……を菱川善夫と献辞において併記できるようなよろこびが、知性によらなければどうして可能だったろう。★「彼は歌壇のホープとして作品を発表しながら、僕の高校で国語の教師をしていました。よく学校の壁に『ゴミはゴミ箱へ』という標語が貼ってあるじゃないですか。すると彼は『おれはゴミみたいなものだから』って、ゴミ箱に入って授業をやったりするんです。こうして話すと奇をてらっているようにしか思えないけど、当時は『この人は本音でやってるな』って感じました」(https://ananweb.jp/news/216118/)。あえて言えばコンビニのクソムックの本棚に自分の「クソ短歌」が紛れ込んでほしい、そしてそんなクソムックを手に取りそうなしょうもない誰かに、自分の「クソ短歌」によって違う刺激を与えてやれればどれほど胸がすくだろう、と森本平はひそかに期待していたようにしか当時私には思えなかった。当時というのは森本平を読みはじめたころの話だ。『山口組抗争史』とか『世界の処刑と拷問』とか、実録なんとか……クソムックというのはそういう本のことだ。大塚英志的に言えば、クソムックといっしょに並べられなければ届きようがない者がおり、その者に達するための流通速度という権利をおそらくある時期の森本平の歌は訴えていたと思うけれど、もちろんそんな事態にはならなかった。ゴミ溜めのなかの抒情(「汚れた街の気高い騎士」)も、ゴミ溜めの仲間に入れないことの抒情(結局は貴種流離譚のバリアント)も、今となってはありきたりな感性に映るのには違いない。★森本平の歌はその多くはたしかにつまらない。ああそうかよ。だがそもそも面白い/つまらないでやってるんじゃないんだよ、言葉の「権利」として歌をやり続けるんだよ、という意志も判りつつ、森本平の歌はその多くはつまらない。そしてそうであるならそのなかからしかし、けしてつまらなくない歌が不意にきらめいて出現することこそどこまで「悲惨」だろうか、「リンダ・ブレアのまわった首のもどるごとなんとかするよなんとかなるさ」(森本平「刹那のパロール」)。