一音でもオーケストラ、一音年目の春来たりなば?

 土地ごとにBGMがきっちり用意され、切り替えられもするビデオゲームというものが、あらためて異様な発想に思えてくる。そうしたビデオゲームでの土地とBGMとの対応関係は、たとえば映画の側からはけして頷かれない点のひとつではないだろうか。映画とビデオゲームとを素朴に並べてなにごとか言うというのは、今や相応の準備と洞察なしではたちまち失効する危うい手つきなのだとは思うし("cinema envy"?)、私にそんな準備や洞察なんてないのだけれど、『映画にとって音とはなにか』(ミシェル・シオン、川竹英克、J.ピノン訳、勁草書房、1993年)を読んでしまうとやはりあれこれビデオゲームに使える箇所を探してしまう。
 冒頭に置いた文は(「ドラクエ式のRPG」と曖昧にかぎってさえ)もちろん全称命題ではありえない。BGMをところどころ/ほとんど欠いたゲームも同じくらいあるに決まっているし、またそもそも土地という把握分けをプレイヤーにうまく言えなくさせる世界描像をもったゲームもいくらでもあるだろうからだ。ただ私の視野にてらし、できるだけ狭いコーパスをとって思い浮かべてのことではある。RPGツクールやウディタで日々つくられ配布されているフリーゲームの、ごく狭いジャンル:RPGの、そのほんの幾例かを思い浮かべてのことではある。そこでは、街のBGM、お城のBGM、バトルでのBGM、とうとう、音楽を土地が守っている。土地を音楽が守っている。「守っている」という言葉遣いを、務め、誓い、の側の語彙としてここで使う。音楽と土地はそこで一対一対応的に結ばれてあるようだ。
 しかし他方で、土地にとらわれないBGMたちもいる。横断するBGMがある。マップタイルによって制作された「土地」に対して、キャラクターの生のなりゆきにつれて移り変わるものはおそらくは「場面」と名指しされるものであり、横断的なBGM*1はこの場面機能によって召喚されてくるのではなかったろうか。緊迫の場面、悲劇的な場面、吉報の場面、とうとう。そこが街だろうとダンジョンだろうと、ゲーム上でのシナリオが緊迫のアスペクトを告げれば、緊迫時のBGMというものは自由にそのゲームの「音場」へと割りこんでくる筈だ。するとこんなとき土地の音楽は場面の音楽に道をゆずる、ということだろうか。ふたつのBGMが同時に流れることはできない以上。話を急ぎすぎただろうか。


 「(フレーム内の音・フレーム外の音)/オフの音」*2、というミシェル・シオンの見立ての強みはやはり、映画のあの登場人物たちも「この音」を聞いているのだろうか、という有機的な連想のときめきに訴えかけてくるところだと私なんかは感じてしまう。映画の音は、映画を観る者のむしろ視覚をこそ貪欲に利用し、みずからの誕生の土地をいわば時間に抗して探しにいくのだという。その美しいアイデア。そしてまた「背景の音楽/天使の音楽」「アクースマティック/アクスメートル」といった、いくらかロラン・バルト的な表情をたたえる魅惑的な補助概念は、実際にそれを使って本書で言及されてある映画作品を観てみたい思いに誘われる。
 一方、私自身がこのところたまたま観た映画、「震える舌」(1980年)や「ブレードランナー」(1982年)での聴取経験を思うと、しばしばミシェル・シオンの整理を自分で作品にてらしてみることのむつかしさもおぼえざるをえなかった。劇伴が映画を通じて機能しているとき、それを「オフの音」だとあらためてみなそうとすると困難になってくる。ある意味で、「感情は心のなかにはなく自然の側にこそ宿っている、世界はすでに有情的なのである」(大森壮蔵)というような構えに自分も知らず知らず置かれているのだろうか。つまり劇伴が起こっているとき、それがフレームとは断絶した場所で流れてあるとどうしても思えないなら、それは画面と音楽が内在的に無数の表情のように融合して感じられるからだ。とすればそれこそ、「統一性」という懐かしい罠に素朴にかかっているだけなのだろうか。答えをかんたんにだす必要もないのだから、もっと長くかかずらってみたいと思う。


 自分のつくったゲームに私もBGMを与えた。その営為が異様だったとは思わないにしろ、自分の与えた音楽を実はキャラクターもほんとうに聞いているのかも知れない、と思いはじめることにはショックを受けた、これはほんとうに。実際、「オフの音」の理論的陥穽はそういうところにあるのではないだろうか。私がたしかに聴いている「この音」を画面のキャラクターも聞いている、けれどそれをキャラクターの誰も顔にはださないでくれているとしたら……? そうではなくて、立場を変えよう。キャラクターの側にこそ徹頭徹尾聞こえている「この音」が、まさかプレイヤーの私の側にも聞こえているんじゃないかと相手もおそるおそる思っているとしたら?

*1:これはべつの水準での話になってしまうけれども、BGMの横断性ということでは、同じ楽曲が複数のそれぞれ違うゲームに使用されるという出来事も見ることができる。無料音源を積極的に利用するフリーゲームではもともと生じやすい出来事ではあり、「この曲あのゲームでも使われてたやつ……!」という気づきが思いがけないときめきを担ってくれることも少なくない。

*2:柴田康太郎は「画面内の音」「画面外の音」という日本語訳を提案している(http://shibataro.hatenablog.com/entry/2017/01/28/130559)。また、「(フレーム内の音・フレーム外の音)/オフの音」という三項関係は、ミシェル・シオンによって「スクリーンの音楽/オーケストラピットの音楽」と言い換えられてもいるけれど、それとおそらく同様のものを指す理論的用語として「物語世界内音楽/物語世界外音楽」という言い方を採るカリル・フリンのような論者もいるようだ(『ジェンダーノスタルジアユートピア フェミニズムと映画音楽』、鈴木圭介訳、平凡社、1994年)。「フレーム内・外の音/オフの音」の区分けは日本のマンガ論においても、ふきだし・声・文字をめぐる聴取の問題系のうちに援用されたりもしており、射程の長い着想なのだろうと思われる。