配信メモ・補遺

アイドルの語りにくさ。アイドル論の難点とは、どこまでが「作品」なのか容易に決めることをアイドル自身がゆるさない点である、というのがモー娘。全盛期の「学会」の報告ではあった。アイドルの発言を、ブログを、番組で見せる振る舞いを、新曲を、さて、すべて追えばそれで十分だろうか。かつて「役に立たない小指」(寺山修司)とまで評され愛された嗣永桃子の小指はどこへ行ってしまったのか?(余談だが花京院ちえりは自分はハロプロファン、嗣永桃子ファンだとある配信で打ち明けてくれていた) ひとは呑気に噂している。私は、たとえばそれは動かしようのないvtuberたちの2Dモデルの影々に残滓として染み込んでいると考える日がある。


思いは複雑だ。自分の2Dモデルのからだが動かないことを指して、石化の呪いにかかってるから、とvtuberはしばしば冗談のように口にする。この意味深長な言葉には「でも、いずれはもっと動けるように・・」という含意がある。それは、3Dモデル化をすでにその途上に半ば約束されてあるアイドル部メンバーの、おそらく胸のうちでもあった筈である。3Dモデルになりたい、もっと動きたい、という願いを貶めることなど誰にもできない。しかしながら誰もがそうあるべきでもない。端的に言って、2Dが3Dへの単なる「踏み台」と思われてはたまらないと思うのだ。そしてvtuberの幾人かは、2Dのままでいることの自足を鮮やかにも発見してみせた筈だった。

vtuberの「ただのファン」のテキストはつねによい。ここがすき、ここがたまらない、と指折り数え上げ、音声を聞き取っては日記に書き写す労力を厭わない人々の文を読むことは喜びである。また、ただのファンから少し離れつつも、自分なりに篤実な内容を明かしてくれる書き手も数人ほどいる。


だから、真正のゴミでしかないのは、いっぱしのコンサル気取りでvtuberが「この先生きのこるには」をなにやら経営図式を借りてきて長文をものしている無数のはてなブログだけである。その底には長く生きる方が短命に終わるより無前提によいものだという信念がある。むろんこれは長寿の優生学なのだ。
vtuberにおいても長く生き、長く続けた方が、短命で捨て鉢で瞬間的な火花よりも、戦略的で偉いのだという(文化的サバイバーを自認する者によくよく愛される言葉ではないか、「戦略」とは)。この、長寿の優生学はあらゆる創作活動の心得指導としてもよくかわされるものだ。長く活動するために・・・一瞬で活動を終わらないために・・・認めさせるために・・・認めてもらうために・・・・・。もちろん長く生きることにペケをつけることが問題なのではない。やるべきことがある、だから少なくとも今はまだ死んでやれない(交差点で立ち止まるたび向こうのビルの「死ねるだけの高さ」を眼で追って数えない)と私も毎日思う。長く生きることでできるようになることはもちろんある。それをするために時間が要るということももちろんだ。
その上でこう思わねばならない。だが一瞬だけ生きて死んでそもそもなにが悪いのか。あいつは一瞬しか活動できなかった、一瞬しか生きれなかった、という命数算さえ徹底的に長寿者の側から理解されたものでしかない。短命だったvtuberは他のvtuberの長寿のための「反省材料」などではない。活動の短命それ自体が憐れまれ、馬鹿にされねばならぬ理由もない。夭折できなかった者が夭折それ自体を愛することは神格化だというモラルはたしかに正しいが、夭折を単に挫折というレイヤーを通して憐れむのも同じことではないか。


その上でまたこうも思わねばならない、長く活動の歳月を重ねることの好機もやはり確かにあると。vtuberたちにも時間の恩寵はある。それゆえ今後配信者の激増によって、vtuber個々人のパーソナリティの差別化が困難になる、これからますます「キャラ」の「代替不可能性」というパイを奪い合う事態がくる、と語る者は、そんな事態になってほしい、そんな事態にこそなるべきだ、と願って言っているにすぎない。「今が例外状態であると言いつのる者は例外状態を待望する者でしかないからつぶして」(安川奈緒)。悲観的予想とその待望との(お馴染みの)一蓮托生に囚われた者たちに反して、ファンはそれぞれの大事な配信者と出会い始めている。


下の記事と同時期にかいていたメモより。
http://kyollect.hatenablog.com/entry/2018/11/18/204057
http://kyollect.hatenablog.com/entry/2018/11/24/115235