ミシディアうさぎは、今夜?

 「『してきたことの総和』が未来ではなくなるときに」(http://kyollect.hatenablog.com/entry/2018/11/18/204057)で、中田健太郎にたった一言でも言い返そうとして、疲弊した。そうかいてみて何人が真剣に受けとってくれるものか知れない。単にその圧倒的な影響下に自分がいるというだけでなく(「実際、」という言葉の中田的用法を私も今までどんなに酷使してきただろう!)、できればあまり他人に明かすことなく大事にとっておきたい。中田健太郎というひとは、その長いブログ時代からずっと、私にとってそんな書き手のひとりにあり続けている。あんま笑かすな、言い返したようにはとても見えない? かもね。「実際、」あれだけかきつけるにもストレスだった。敵意なしに言い返すのだってストレスだ。それでも他人をほんとうに大切に思うために、けして慣れない、慣れることなんてありえない、言い返す、という行いを採らなければそれもまた深く傷つくんだと思った。
 
・アイドルについて語るということ(七里の鼻の小皺)https://web.archive.org/web/20070822074855/http://d.hatena.ne.jp/nanari/20070718#p1
・「アイドルについて語るということ」(七里の鼻の小皺)への覚書(娘。魂の唯物論的な擁護のために)
http://d.hatena.ne.jp/itaittei/20080918

 vtuberについて考えているとき、過去のネット上での議論があれこれ浮かぶ。直接関係するとも思えないまま。水準の低いものから、高いものまで。10年ほど前に発表されたこのふたつの文=精神もそのひとつではある。乱暴にまとめてしまえば、ここでは「新しい神話」というモデルと「反神話」というモラルとが、アイドル存在の愛し方において衝突していた筈だった。誠実さが仮に思考同様に志向性をもつものならば、ひとつの言葉が誠実だというとき、それは必ず「なにかに対して」誠実だという向かいをえる筈だ。七里はほとんど身勝手でさえある自分の一人称の欲望をどこまでも追いつめることに対して、痛井ッ亭はそんな一人称から投射される欲望を浴びさせられるアイドル、信者からの思いや憧れに受動的にさらされ傷つき続ける者の側に対して、それぞれ真剣に誠実なことをかいたと私には思える。だから何度も読み返すことになる。どちらの側につくか、どちらにもつかないか、ということが問題なのではない。
 そうではあるにろ、今時点での情勢論を含めても「娘。魂の唯物論的な擁護のために」にますます分があるのかも知れない。「女性アイドル」に対して「聖性」という語彙で強調線を引き、「性と恋愛」に「謎」を備給するがゆえにアイドルを肯定できるものとする「七里の鼻の小皺」の行き方はますます、それはない、という退けをひとから引きださせるに違いない。しかもシュルレアリスム研究者としての七里の顔を思うとき、その運動のなかで悪名高いミューズ信仰がどのような歴史的経緯をたどり批判され再考されてきたか知悉していなかった筈もないと思えるのであれば…………*1


 「地雷」というスラングが私はすきではない。地雷という言い方にはなにか、ゆるせない対象とは生涯けして変わることがないもの、死ぬまで不動だということを前提とした感性の物象化のように感じられるからだ。急いでつけくわえておくと、そう思ってしまう誰かを否定したいのではない。しかしどこかでかいたように、自分にとっての「地雷」を「超えたしかた」で踏んでみせるような文があり、書き手もいると私は信じている。ゆるせるもの/ゆるしがたいものという基準自体に強く再考を迫る、などというよりもはるかに、端的に自分の「地雷」とはいったいなんだったのか、その文の前では忘れてしまうような。たしかに地雷を踏まれている筈なのに、その踏まれ方があまりにも「超えたしかた」であるために、無防備にも受け入れてしまえるような。それがいいと言いたい訳ではない。ただ、ひとが思うよりそうしたことは案外多くの瞬間に、自分の身に起こっているのではないかと訊いてみたいだけだ。「思想信条的にゆるしがたいものを、すきになることはゆるされない」「自分が思想の上でゆるせるものと、実際にすきになるものとは、つねに一致しなければならない」と初めから決めてかかっているのでもないかぎり。こうした気持ちのなりゆきを、もちろん単純化して語ることは誰にもできないのだとしても。
 もうはっきりしている通り、七里の文も私にとってしばしばそんなだ。今の私には七里の文中の「『現実的』という言葉が、諦めの枕詞として呟かれるのが嫌いだ」が、『白髪の拳銃』(アンドレ・ブルトン)の序論にある「《が、それは夢にすぎなかった》」という失望のポーズへの軽蔑を正しく引き継いでかかれたということも、判っている。問題となっているのは、ここでも現実の徹底的な可塑性の筈だった。「娘。魂の唯物論的な擁護のために」からの批判は正当なものだったと思う。そして必要なことでさえあったけれど(2chの「処女厨」の自分勝手な夢想を卓の上に積みこんでまで思いのレートをつりあげてみせた七里にとっても、その批判のいくつかはあらかじめ自分自身苦しんで考え、かいた筈だと信じてしまう。そんな「好意的」な信じをするのも私がまだ、七里の信者だからだろうか。いや)、少なくともこの現実への期待の視線については七里を見誤っていた。それなのにもう夕方が来る。もちこたえられない、これ以上は。これ以上の今日はそれなのに。この日記の続きをかくのではないだろう、この日記をいつか最初からかきなおす。七里の好んだような言葉遣いで言えば「待ち合わせの場所」をどこにするか悩んで、七里と同じほど私に大事な書き手のページから仮にそう指し示せそうなアドレスを引いておく、「自分を感動させた物が、自分自身の正義に反していないとは限らない。」(http://kaolu4s.sp.land.to/okiba/imaki.hp.infoseek.co.jp/old/g9910.html#08100)。この言葉にもやはり時計はついてある、と思う。

*1:この小さくきつい空間でもうひとつの文をかいておく。つい最近も現代歌人加藤治郎が「ミューズ」という言葉を2019年の今にして「アクチュアル」なものにしてしまったようだ。「死ぬな、勝手にミューズにされるぞ」(瀬戸夏子)という題の心を思うと、言葉に詰まってしまう。そしてたしかにこの出来事は、加藤治郎と並びニューウェーブを歌作でも理論上でも担ってきた荻原裕幸が、シンポジウム「ニューウェーブは、何を企てたか」で見せた強硬さと思わずも歩を合わせてしまっている。「ニューウェーブ運動に女性歌人はいない」という見解自体が問題なのではなく、そもそも運動をいまいちど再考してみたい筈だったろう場で、つまり「定義」をなにか不動のリストのように監禁するのではなく、むしろ可塑性へ向けて開いて考えていきたい可能性を頭から拒絶する荻原裕幸の強硬さに、私も遠くで読んでいながらショックを受けた。あえて言えば私自身、けして会うことはなくとも荻原裕幸というひとの「人柄」に長く励まされてきただけに……。睦月都が聞きとり、阿木津英によって引かれた発言「論じられてないのでいません。それで終わりです。」に、会場にいた者がどれほど突き放されたように悲しんだか判らない(https://sunagoya.com/jihyo/?p=1582)。加藤治郎のことに戻りたい。私的な回想録の側面をもつのだという「ニューウェーブ歌人メモワール」そのTwitter版というたしかに「微妙」な執筆背景のステイタスの問題などは措くとしても……またTwitterから私がほぼ撤退してしまったので、うまく話を追えない部分は多いけれども。しかも加藤治郎当人は「シュルレアリスト」の用法を「踏まえて」!当の言葉を使用したとまで言っているのだから、短歌にもシュルにも余儀なくつかまれてきた私にとってもこれは、まったく他人事ではない。ただしほとんど無邪気(……)のように口を滑らせた歌人に対する批判のなかにも、自分を脇に置いたりしない誠実なもの、話されてよかったものも見られれば、とても同意しかねる粗暴な物言いも散見された。簡単に結論づける訳にはいかない。なによりまず、誰かに憧れ、誰かを神格化したことなどまるで生まれてから一度もないような美しい顔で加藤治郎を切断処理してみせるのは、私には無理だ。だってそうだろう? 加藤治郎の言動を気持ち悪がっている者たちが、では全員内なる自己批判を少しでもした上で言っているのかさえ判らない。議論の正当性とはべつに、「よく判っている」者が「なにも知らなかった」者を批判する上で不可避に場にあらわになるアドバンテージの差を横から観戦して、(まさかそんなひとがいるとは思わないけれど)ああ、自分はああじゃなくてよかった!などと安心することが誰にとっても問題ではないのは明らかだ。きわめて繊細な思考が求められるだけに、一口に述べることなどとてもできないけれど、私自身はあらゆる神格化、最も素朴な意味での「人間扱いしなさ」の契機を最初から「なし」に据えて生きることはむつかしいと思っている。それを肯定したい訳ではない。けれど、自他の性別がどうであれ「ひとを神格化するな、死ぬまで誰の信者でもあるな」と相手に命じること。それもまたひとつの「人間扱いしてなさ」だと考えてしまう日は、ないだろうか。私はある。いや私は神格化なんてしない、私はそんな気持ち悪さとは無縁だ、と自信をもって言える者がいるならでてきてほしいものだ。しかも誰かをうかつにも神格化してしまう瞬間がそんな風に不可避だからこそ、それが生じたときに都度、それぞれのなかで自己批判や他人からの呼び声を聞き、傷つきながら考えなおしていけるチャンスもあるのではないだろうか。それに以前かいたように、作者を「人間扱いしない」ことの侮辱もあれば、作品を具体的に読みこんでいく局面では逆に作者をあまりに「人間扱いしすぎる」ことが侮辱となってしまうこともある(粗雑な反映論などのケース)。作者に直接貼りつけられる非礼なレッテルと、その作品群から遡行的に「構成」された作者像に対するフィクショナルな呼び名とが互いに融けあって境界画定しかねるという事例もあるだろう(塚本邦雄「魔王」扱いするのだってそうじゃないか?)。もちろんこうしたことは加藤治郎のことに直接関係のある話ではないし、性差と視線の質こそがそこではまず問題となっているだろうにせよ。また作者の境遇や容姿をなににもましてむさぼる身振りに自覚を促すための文脈で「作品そのものを評価する」と言うことはまずは正当な対応ではあるにせよ、そもそも「作品そのもの」という単位がどこでなにによって成立しうるのか、しかも実はどこまで可能で実はどこまでむつかしくなるのか……を徹底的に疑いにかけてきた20世紀のテクスト論や分析美学上での展開を大まかにでも顧みれば、やはり「作品そのものを評価する」という言葉の内実もそのままではつらいものが、ないだろうか? もちろんそう言うべき相手が、時宜があり、そう言うことには確実に意味も意義も効果もあるのだとしても。一方で、作品と作者との境界画定がふと「誰にも」ではなく「この私」にこそ判らなくなる経験の強度、作品より作者をこそ信頼する愚かしい態度(齊藤哲也)を、伝統的な作品主義に対するひとつの対抗倫理として、現在のシュルレアリスム研究が少しづつ持ち帰ってくれはじめているのを見ながら、それを直接現代短歌に運びこめはしないことも同時に強く知っているところにいる私も、だからこそなんとか考えてみたいとたよりない思いで、思う。