全身の痛みにうまく考えをすることができない残念だ。病。ある指が麻痺するとべつの指に麻痺が移っていく。交代・・・こんなとき、あのひとなら、とうとう。明るく晴れたとき外にでて撮った写真は痛みをなんとかこらえて撮ってきたものだったけれど、当然にというか、家に帰って見ていてもその風景にはそれを撮った者の激痛の痕跡は微塵もなかった。そして撮っている最中にあんまり暖かい日差しがあったものだから、私から激痛がふと「しらばっくれた」、その痕跡もまたない訳だけれど。写真の無関心、爽やかさ。


 書記の上で私はけして強肩な書き手ではなかった、それは読んでいるひとには伝わってきたと思う。腕力でかくタイプにもなれない(「腕力で書く時代はすでに終ったと思います」)。私に鬱陶しいくらいあったのは筆圧だけ。


 「例えば全ての物語が"私は寂しい"としか言っていなかったとして/なんの不都合があろうか」(https://note.mu/yuche13/n/nf7acf1e0fbc9)・・・そうだね。


 メイ・シンクレア、桂遊生丸、透った名前だけに眼をつぶる。(それにしても桂遊生丸ファンタジスタドールのコミカライズを手がける日がなぜこなかったのだろう)


 「大切なものを/目を閉じるだけで取り返す」(渡辺めぐみ「夜霧」)


 だから、


 服を、本を、捨てていく。売るとかない。廃棄する。いろんなことは思わない。部屋をほんとうにきれいにしなくちゃいけないから。

 要するに、必要なのは「他者」ではなく「他人」だったのです。私に共感してくれる「他者」との親密な対話ではなく、会ったこともない「他人」によるマイペースな解釈。それがかえって私の経験を開いてくれたのです。玄関から外に出ようとしていたのに、裏口から不意に扉を開けられて外の風が入ってきた、そんな気分でした。
 もちろん、他者の関わりは重要です。とはいえ、「つながり」や「共感」が、あらゆる場面において万能なわけではない。偶然に引いたおみくじこそが真実を語っていると思えるのと同じように、切断されたところにいる他人が、私を言い当てることもある。「同じ立場にたって寄り添う」よりも「向こう岸から見られていた」ような関係に、ハッとさせられることがある。
伊藤亜紗「あとがき」(『どもる体』)pp.251-252、医学書院、2018年)


 1/130000のbirthday cake、やられたな、と思う。素直に。このかかれはコンビニでプリントアウトして紙で読んでいく。私のだいすきなひとりが、私がそれがかかれるのをずっと待っていたことについてかいてくれた文だから。読んでください、私は自分をとても恥じているところです。

lpicnic.hatenablog.com

 実際、あのひとの言葉を待ち焦がれる、という相手をもてないのだとしたらこの世なんて結局なにほどでもないんだという・・・・心底。


 集中していると痛みが聞こえなくなる。なんて単純なんだろう。


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