短歌のスポイラー、暴露に享楽があってもないとき

 昨年行われたWS「ネタバレの美学」での発表資料にひととおり眼を通した:

・高田敦史「謎の現象学: ミステリの鑑賞経験からネタバレを考える」https://drive.google.com/file/d/1o5mS7cAGL6S4ygtGh8N8r3wxz9lVgG6X/view(リンク先はpdf)
森功次「観賞前にネタバレ情報を読みにいくことの倫理的な悪さ、 そしてネタバレ許容派の欺瞞」https://researchmap.jp/muj1jobrc-1833297/#_1833297
・渡辺一暁「なぜネタバレに反応するのか」https://researchmap.jp/mu3qzknp6-2067039/#_2067039
・松永伸司「ネタバレは悪くて悪くない: ネタバレ論争折衷派」https://researchmap.jp/mu9btv2l7-1918131/?action=multidatabase_action_main_filedownload&download_flag=1&upload_id=212090&metadata_id=107646(リンク先はpdf)

 また、WS当日の流れも報告されている(toggeter):

・「ワークショップ『ネタバレの美学』2018年11月23日」https://togetter.com/li/1291459

 「ネタバレの美学」というタイトルは、各発表者が分析/美学系の議論を適時活用しながらネタバレという現象・出来事にアプローチする、というWS全体の方向性によっておそらく名づけられたものであって、「美学」という用語の通俗的な側面からひとが連想しがちな意味はここにはない。つまり、ネタバレが称揚されている訳ではまったくない。誤解するひとはまずいないだろうにせよ。
 議論中にもあるように争点の一部はたしかにゾーニングの問題とも重なっている。ネタバレなしの鑑賞こそが本来的な正しい作品受容だという趣旨に基づく、作品鑑賞の「正しさ、本来性」といった観点も、まっさきに議論を呼ぶところでもあるだろう。個人的に、ヴィーガンアニマルライツが肉食者に対して投げかけてきた批判史、その主ななりゆきなども思い浮かべることになった(自分の行っている行為=食肉が種差別に基づく悪/徳だという指摘の正当性を認めつつ、しかも生の上での実践としてヴィーガンには同意しない……という選択、悪/徳を知りつつ行う主体の享楽の有無……とうとう)。


 WSでの個々の議論に同意するかしないかは措くとして、「短歌にもネタバレはある」と、たとえば考えてみることはどの程度できるだろうか。こうかきだしてみてすでに強烈な違和感がある。先に明かすと私は、短歌に対してネタバレという側面から考えるのはかなりむつかしいと思う。短歌に対する語りのなかでネタバレを感じたことがまずない……という素朴な感想によるものでしかないのかもこれは、知れないとしても。ジャンル固有の成立条件や形式的な諸側面などは抜きにして、単に実践上の営みを広く参照して言うのなら、「短歌は引用が華(引かれてナンボ)」という暴露を誘う価値観でまずは生き延びてもきている、そんな通念も働いているのかも知れない。そしてやはりまた短歌固有のありかたに眼を戻せば、連作/一首というステイタス上の微妙かつ絶対な表現単位の問題もここは強く影響しているだろうと思う。たとえ連作を通してなにがしかの出来事や主体を仮構していても、それぞれを一首「として」引く孤絶、ゆえに一首「として」読む孤絶、というありさまに対して門を閉ざすこともどうしたってできはしない、という……。そもそも、歌集/連作/一首といった発表上でのステイタスの違いのどこについて言うのか、という話もある。
 短歌は「おはなし」ではありえないのだから、「結末」や「サスペンス」ははなから問題ではないんだ(それゆえ短歌にネタバレはない)、とジャンル間の亀裂を前提としてしまえばたしかに最初からすべては擬似問題だったかのようだ。なにもかも、間違ってかきだしてしまった? いやまったく。こんなしかたでは短歌のなにも明らかにはならないだろう、実のある議論は期待できない……正直に思う。それでもとりとめなく、当てずっぽうに連想してみることはできる。通時的にひとつの枠組みで語りを進めるなかで問題になる「結末」や「サスペンス」でなくとも、「技法」や「仕掛け」といった水準からネタバレのあるなしにこぎつけることもできるのだとは思う*1。現代仮名遣いで短歌をやっている歌人が、例外的に歴史的仮名遣いでつくった連作が『短歌ヴァーサス』のある号には載っていた、ということもどこかの水準では深いネタバラシになるだろう(作家史を作品を通じて追う水準)。中島裕介のとある連作のとある歌は、通常のパソコンからのテキスト打ちこみでは再現できない印刷操作を費やしてある、ということはこの場合、どの程度までどうだろうか(引用に抵抗的なタイポグラフィの、紙面に積極的な異物感を持ちこみたいという水準)。山中千瀬の、有限性から遠い思いが垣間見られていく折句のひとつひとつを言うことや、言わないことはどうだろう(秘密とその打ち明けの水準)。『ひだりききの機械』(吉岡太朗)のあのページに言及することは? そう、そして『はーはー姫が彼女の王子たちに出逢うまで』(雪舟えま)は?

*1:こういう言い方も、こころもとないものだ。短歌では、その側面でのネタバレを受けたとしても不愉快をおぼえることは私はまずないからだ。ネタバレされようと痛まないネタバレ、そんなものはほんとうにネタバレと呼べるのだろうか……? ここで、なにが食い違って、なにを取り逃がしてしまっているだろうか? なにを過剰に重視し、なにを軽く見てしまっているだろうか?