生まれていってきたことに/Where me and the vultures live

 燻製卵はるけき火事の香にみちて母がわれ生みたること恕す/塚本邦雄*1


 生きてきていれば、一度や二度は反出生主義者になるもんじゃないかとも思う。片割れでも。なんでも。誰でも、とうかつにも言いかけ、やっぱり新品のように恥ずかしい訂正線を手でにぎって、夜中にひとの眼を避けて自分の心の前までやってきてから「誰でも」を消して。「生まれなかったほうが……」へのなりかたの程度の差、信念の深さ、肩入れの濃さ、躊躇いの質は言わないにしても。
 でもその先はそれぞれだ。


・「ロングフル・ライフ/ロングフル・バース」(「立命館大学 生存学研究センター)
http://www.arsvi.com/d/wl.htm

加藤秀一「『なぜ私を産んだ!』親や医師を訴えるロングフル・ライフ訴訟とは何か」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/63516

・吉良貴之(@tkira26)「ロングフルライフ訴訟と中絶の自由」
https://twitter.com/i/moments/864172796531752960

加藤秀一「『生まれないほうが良かった』という思想について」
http://www.arsvi.com/2000/031013ks.htm

加藤秀一「『生まれないほうが良かった』という思想をめぐって」(pdf)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/55/3/55_3_298/_pdf/-char/ja

しかし、障害抜きで単に当人が否定する出生についてWL(=Wrongful Life)と認めた判決は見あたらない. したがって, WL訴訟を肯定することは, 単に当人が望まないという理由によってある出生を不当とすることではなく, 客観的な基準によって認定される障害を有しているという理由にもとづいて, ある出生を不当とすることである.

加藤秀一「『生まれないほうが良かった』という思想をめぐって」注2より、強調は引用者)

 つまり、医師により診断され認定された障害抜きに、この世に生まれたこと自体の「被害」/「被災」への訴えはいまだ認められていないということ。


私は、生殖と分離された感情や実践が、どうしてことさらに「性愛」と呼ばれるべきか、その理由が分かりません。肉体の愛と呼べば充分だと思います。歴史的経緯からして、「性愛」なる用語は、一見中立的な用語である「恋愛」や「愛」が、実は異性愛中心主義的に使用されていることが告発された結果、「同性愛」に対する「異性愛」が使用され、そして、その「同」と「異」を外した、「性愛」がいわば一人歩きし始めたものだと言えます。とすると、「同」と「異」に共通する性的な要素があるはずだということになりますが、それは何でしょうか。(……)

ところで、市野川氏は生殖に関連してこう書いています。「生殖技術を駆使することによってレズビアンの女性も子どもをもつことができる。しかし、そうすることは、人間の再生産に原理的に結びつかない性愛ゆえに、自分たちに逸脱者の烙印をおしてきた既存の社会規範(=異性愛至上主義)に対して、レズビアンがおこなう一種の贖罪や補償にはなっても、当の社会規範そのものを変えることにはならない」(207)。
これは、私には、まったく間違えた見解に見えます。仮に、逸脱すなわち倒錯の烙印なるものが、生殖に結びつかない肉体的営みの故であるとするなら、通常の婚姻夫婦こそが倒錯しています。ほとんどの夫婦は、一生の間、生殖のための肉体的営みを、数えるほどしか行なっていないはずです。だから、むしろ、レズビアンが、肉体を使用して子をなすというその仕方に、学ぶ必要があるはずです。今後は、どうして子を生むのかを、レズビアンにこそ、また、「不妊症」と呼ばれている人びとにこそ、学び直すべきなのです。

小泉義之「社会性と生物性 」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/031013.htm、強調は引用者)

 性愛って言葉には、私からするともっと触覚的な嫌悪がある(もったいぶってる、大仰、うさんくさい、とうとう)。「肉体の愛」は………どうかな……? 私だったら「エロ」にしちゃいたいけど、なんでも。好みの問題と言えばそうですね。

 私が男性的主体に成り始めたその起源において、排除されたもの、排除された別の性的主体とは何でしょうか。私なる男性的主体に余りに内密なために不気味なものとして回帰してくるようなそのような性的他者とは何でしょうか。それを排除することによって私が(男)性的主体に成り果せることができたそれは何か。
 それは女性であると言い難いことに留意して下さい(この言い難さを察知しているのがデリダです。それは産む性であると考えてみることはできそうな気がしています。この筋はフロイトに微かにあるし、ドゥルーズ/ガタリにも読み取れます)。
 現代思想家の多くは、フェミニスト理論家の多くも、まさにここで性差の水準から性愛差の水準に飛び移って、(男性)異性愛者の主体が排除したものは(男性)同性愛であると解して語ってきたのです。この理解の仕方は政治的にも正しく見えますから現在でも非常に流通しています。というのも、異性愛者が異性愛者として立ち上がる際に同性愛を排除することが本質的条件であるなら、現代思想公準からして、排除されたものは不気味な者などとして必ず回帰することになるし、自らの内なる余りに親密で不気味なものとして位置づくことになるし、こうして男性異性愛者の内なるホモフォビアと外向けの同性愛差別の起源に対して同時に説明が付くからです。差別の原因と差別の根深さについて分かった気持ちになるからです。異性愛者はまさに異性愛者であるが故に、同性愛を抑圧し差別するようになっている、それこそが異性愛主体の構造的必然性であると、告発したり疚しき良心を披歴して自己批判できたりする気持ちになれる。
 私自身はこのような現代思想の動向の一つに疑念を抱いてきました。それほどまでにこの私は異性愛者的であるというのではなく、そのような動向が政治的に正しいとも有効であるとも思えなかったし、現状では尚更有効ではないと考えているからです。……(なお、現代思想公準に従う限りでは、私は異性愛も同性愛も起源において排除しているのは障害ないし障害者の性であると考えるべきであると思っています)

小泉義之現代思想公準――主体の起源論」(「2007年度学部講義『性』関連資料ノート・最終回概要」、http://www.r-gscefs.jp/?p=950)、強調は引用者)

誰かが望んでひとりやふたりやたくさんで子どもを産むと決めるのなら(たとえ打算によるものだとしても、この世がどうあがいてもクソでしか無いのだとしても)、この世界の景色を見せたいというのなら、そっちの意思も尊重されて良いし、むしろそっちの意思しかわからない。

(鳥居「クソみたいな世界で反出生主義者にならなかった人のする話」、「怪獣歌会」https://note.mu/quaijiu/n/nc533f2666ebd


 「同意」もなしに自分は誕生させられてしまった(=産んでくださいなんて頼んでない!)、という無念をひとが抱くときにたぶん漠然と想像されているのは、芥川龍之介「河童」の出産風景みたいなことでしょうけれど、あれはすでに子供自身は生まれてしまってる、というのが躓きの石で。そこは真っ先にみんな思いつくことだろうとも思うけれど。親と会話でき、「この世界へ生れて来るかどうか」の判断もでき、道徳上の信念さえ持っている(「僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから」)。そんな河童の子供にとって、「生まれてくる」の「生まれて」はすでに通過してしまってるので、あとは「くる」の部分、母親のお腹のなかから外の世界へと移動すること、移動する権利に問題は移ってしまってる(それはそれで重大なもの)。
 この世に生まれてきたいかどうか訊かれて応答できるのは、すでにもう生まれてしまっている者だけです、というのが前提にある。問いが宛てられるべき場所をあらかじめくぐってきた者しか、問いを事後的に聞きとることはできない。ゆえに、その意味で、生まれてきたいかどうかの同意に正しく応答できる人間はこの世に誰もいない。「生まれる前に私はその同意を訊かれたかった」と考えてしまうのは、(こんな言い方とりたくないけれども、)どうしようもなく「手遅れ」の場所にいる自分に、生誕という取り返しがつかない出来事を確認させるのみではあるのだろうとは思う。そして生存者と非生存者間の非対称性や交渉不可能性や通約不可能性でもって一般的には議論が立てられ、進められてもいくでしょう。
 ここでしかも、と私も言いたいのかも知れない。生きさせられてしまったことを呪詛すること、生まれたくなんてなかったと繰り返し無念することがしかも、自分の思いを裏切って生きる力に「なってしまう」「なってしまっていることに気づかされる」ことはよくある。ここでしかし、と誰かが反論してくるのも判る。それがまさに、と誰かがその反論に上乗せしてくる。べつの角度から。ひとは必ず死ぬ、だから子供をつくるということは(生まれてくる世界がたとえ豊かだろうが貧しかろうがそんなこととはなんの関係もなく)人殺しを行うのと同じ、と。私も、ある時期までそう考えていた気がする。私自身死ぬのが、というより確実に大きな痛みを経験しながら死ぬだろうことに、ほんとうにおびえきっている。それでも、ひとりひとりの実際に子供をつくった親たちをそんな風に恫喝してなんになるだろう。ひとりひとりの子供をつくることをこれから望んでいる親たちをそんな風に脅迫して、ほんとうになんになるだろう。

 妊娠した女工のためのカンパ。みんな一フランないし一フラン五〇(わたしは二フラン)を出す。着がえ部屋で議論(一年前にも、同じ事柄のために、これと同じ場面に出くわしたことがあった)。「それにしてもさ、毎年のことじゃね──これはまあ、大へんな不幸よ。それ以外の何ものでもないわ。それに、どんな人にだって起こってくるかもしれないことよ。──……わからないときには……しないにこしたことはないわ……」スペイン女が言う、「でも、そんなことはカンパをする理由にはならないと思うわ、あんたどう思う」。わたしは、「なると思う」と確信をもって答える。彼女もそれ以上、言い張らない。

シモーヌ・ヴェイユ、黒木義典・田辺保訳「工場日記」(『労働と人生についての省察』)p.119、勁草書房、1967年)


youtu.be

*1:塚本邦雄「水銀伝説」『塚本邦雄全集 第一巻』p.205、ゆまに書房、1998年。「恕」に「ゆる」のルビ