無抵抗を認めない(ホッブズのリヴァイアサンから)

 自分の意志に反して「からだ」は勝手に自分の命を守ろうとする、ということの機微が『リヴァイアサン』(トマス・ホッブズ)のページの隅から漂ってくる。とはいえ、それは確実に気配のようにも嗅がれるものであって、明かされてかかれているものではない。問題は、自己保存の権利の譲渡しえなさが露呈する場面においてのことではある。うまく読んでゆけないところ、曖昧なところをいったんペンディングしながら、ではあれ、私にはやはり異様な力点がむきだしに見えるところについて。

 力にたいして、力で自己防衛しないという契約はつねに無効である。というのは(……)人は何人も、死、障害、投獄から自己を救うための権利を譲渡したり、放棄したりできないからである。(……)
 人はたとえばつぎのように契約することはできる。「もしも私が、これこれのことをやらなかったら、殺してくれ」。しかし、「もしも私が、これこれのことをやらなかったら、あなたが私を殺しに来ても逆らわない」と契約することはできない。人間は生来大きな害悪より小さな害悪を選ぶものであり、抵抗することなしに即刻確実に殺されるよりは、抵抗による死の危険を選ぶ。そしてこれが万人の認める真理であることは、犯罪者が刑場や牢獄に引かれて行くとき、幾人かの連行人が武装することからもわかる。しかも犯罪者は、彼らを処罰した法にすでに同意しているにもかかわらず、なおそうなのである。
(『リヴァイアサン I』p.193*1

 (……)かりに主権者がある人に〔たとえ正当に有罪判決を受けた者であっても〕自殺を命じたり、自分を傷つけたり、不具にしたり、あるいは攻撃を加える者に抵抗しないよう命じたり、また、食物、空気、薬など、生きていくのに不可欠なものを禁じたとしても、彼は服従しない自由を持つのである。
(同上p.301)

 主権者に、「私を殺す」ことを許してはいても、命じられたときに自殺するよう義務づけられているのではない。「殺したければ、私や私の仲間を殺すがいい」というのと、「私は自分から死のう。仲間を殺そう」というのとは、まったくべつのことなのである。そこで、つぎのようになる。
 いかなる人も、ことばそのものによって、自分や他人を殺すように拘束されてはいない。したがって、主権者から危険な、あるいは不名誉な職務を果たすよう命じられたとき、命令を受けたものを拘束するのは、服従のことばではなく、その行為の目的にもとづいて判断されるべき意図である。それゆえ、かりに服従を拒否することが、主権設立の目的を妨げるものであるならば、拒否の自由はない。そうでないときにこそ自由がある。
(同上p.302)

 自殺や投獄を命じられようとも「彼は服従しない自由を持つ」。しかしこの意味は、コモンウェルスにおいて彼は殺されたり投獄されることはない、という身の安全の保障を約束するものではけしてない筈だ。そうではなくて、彼は主権者の命令によって「刑場や牢獄に引かれて行く」ことが決まっている。しかもその際に牙を剥いて抗い、暴れ、大声で叫び、一瞬の隙をついて逃げだすために貪欲に策を練る、そのあらゆる抵抗へのコナトゥスもあらかじめ認められているということに違いない。ホッブズのここでの書きつけは、なにか強烈に歪なありさまにふれていると私は思う。「服従しない自由」が「自分の生命に無関心でいることを赦さない」という内訳で塗りたくられているからだ。「お前は死ななくてはいけない。我々はコモンウェルスの名において、お前を殺しに行く。だがお前も無抵抗でいることは赦されない。それでもお前を死なせるために我々はベストを尽くすだろう、お前がお前の命を守るためにベストを尽くすのと同様に」。ホッブズの議論には上のような情景とともに、より「穏当」な不服従の自由も用意されている。たとえば徴兵を受け、戦場行きを命じられても、拒否することの自由は依然合法とされる(p.302。ただし自分の身代わりとして、べつの兵士を差しだせることを条件として)。
 ここまでは、表立って拒否の自由を主体がくちにできる空間、理由と推論に賦活されている水準だ。しかしながら、ここより下、ずり下がった局面での悶着がすでに記述の端に見えていないだろうか。主体の意志に依らず「からだ」が勝手に守るべきものを決めるところ。自殺を投獄を命じられた「からだ」が自動的に動きだそうという局面まで、十分にホッブズは見てとってこの本をかいているように思われる。お前は死ななくてはいけない。主権者ないし主権者の代行者、すなわち結局は自分自身のくちにより、そう言い渡される。自分自身でさえその命令を頭では受け入れている。自分は死ななくてはいけない……死ななくては……。するとそのときに、「からだ」はべつの言い分がある、法がある。「からだ」が勝手に自分の命を守りはじめる。この、おそらく「からだ」からのべつな言い分をどこかで深く見てとってもいるようなホッブズの記述のうちでは、人間もいくぶんか自動的な存在、いくぶんかメカニカルな存在、いくぶんかプログラミング的な存在に見えてこないだろうか。
 主権者の命令の前では抵抗をやめろ、と告げているのではない(そうであればどれほど判りやすいことか)。むしろ抵抗せずにいることこそ赦されない、と言っているのだから話は簡単ではない。なお自然法において、ひとは「(自己の)生命がもっともよく維持されると彼が考えることを怠ることが禁じられる」(p.177)のだという。ケアとキュア、メンテナンスを義務づけられた人間の保健的「からだ」に、生きることそのもののサボタージュを見失いそうだ。この様相が後年、なんと呼ばれていったかはもう私も知っている。


 上野修=バルーフ・デ・スピノザから:

 我々が、各人は自己の権利のもとにある物をどうにでも好きなように処理することができるという場合、この力は、働きかける者の能力によってばかりでなく、さらに働きかけられる物自身の適応性によって決定されなければならぬ。たとえば、私がこの机をどうにでも好きなようにする権利を持つと言う場合、それは私がこの机に草を食うようにさせる権利を持つという意味では断じてない。
スピノザ、畠中尚志訳『国家論』pp.52-53、岩波文庫岩波書店、1940年。強調は引用者)

 有名な「机に草を……」の例。ここではそのひとつ前の行が重要で、どのような命令も被命令者の「からだ」の条件に徹底的に左右されるだろう、命令の可能性は被命令者の「からだ」の可塑性と正確に釣り合うだろう、ということ。「最高権力の権利は(……)実際に人に何かをさせることのできるその範囲にまでしか及ばない」*2

*1:ホッブズ、永井道雄・上田邦義訳『リヴァイアサン I』、中公クラシックス中央公論新社、2009年

*2:上野修スピノザ「神学政治論」を読む』p.75、ちくま学芸文庫筑摩書房、2014年