無意味について、あるいは無意味という標語について

 作品の絶対的な「無意味さ」を称揚することで、ずいぶんと儲け、美味しい思いをしてきた感性上の流れがあったと私は今も思っています。この作品は無意味だからいい、と作者が自ら言う場合もあれば、受け手が言う場合もあります。見当違いで水準の低い「解釈」によって作品は繰り返しこれまで傷つけられてきた、という意識の怨恨史の深さを私としてはいつもそこに感じてきました。
 それに、「無意味」という言葉に対し、各人はばらばらで私的な情をこめて使ってきた筈だとも思います。べつに形式意味論などに深入りせず素朴な感想で言うとしても、無意味という言葉がいろんな意味で言われてきたと思います。無意味(ゆえに無価値)という評価語として。また、無意味(ゆえに無根拠)という恣意性批判として・・・。あるいは「制限された量化」(W.G.ライカン)を与えられ。たとえば「誰もこんなもの買わない!」と口にされる際の「誰も」が、なにも宇宙全体の対象者をいちいち検索する必要なく、その言葉が口にされる会話上の文脈にすでに根差した一定の検索領域(「誰も」=「(この街に住んでるひとならば)誰も」といった風に)さえ走れば会話には十分であるように。つまり「(しかじかの意味では)無意味だ」と意味づけの方向や質を暗黙に隠されて話されている、というようにです。「生活するのになんの役に立たないようなものが理想だから、作品は無意味であってほしい」というような言い方もたまに聞きます。それはよく判るのですけれど、私は意固地だから、「有用性を欠くこと」と「無意味だということ」の短絡に結局は同意できなくなります・・・。というか、そうした思いも、「(役に立たないという意味で)無意味であってほしい」とやはり意味づけられた無意味として聞かれるようになっていると思います。意固地だと思います、自分が。岡井隆はどこかで、「ある作品に対して意味が判らないということは、その作品が多義的だ(意味がありすぎる、豊富だ)ということの言い換えなのではないか」というような趣旨のことを言っていた記憶があります。これは誤った文脈で私は引いてる筈ですが、でも「無意味さ」という概念もそんな風に多義的に使いまわされてきたところがあると思います。生身では経験不可能と思われるもの(死や詩・・)を想定して、そこへ直接的にではなく隠喩的/迂回的に接近するというやりかた(ジョルジュ・バタイユ入沢康夫のケース)が尽くされたように、真正の「無意味さ」への隠喩的な歩み寄りとして各作品経験のうちに、無意味さそのものではなくその影や余波の痕跡を指して言われる、こともあるのかも知れない。
 私はそれでもどうしても意味の側に立ってやるんだ意味の側に留まってやるんだと思ってきました。意味がない、という事態はどう見ても、そうたやすく、気楽に言ってのけられるものではないように思えたからだし、無意味さの称揚に直観的にも反撥と不審があったからです。「無」ってなんだよ、とほとんど怒りのように思いますから。とにかく「え?」でも「は?」でも「・・・・」でもなにか感じたのなら、感じてしまったのならもう無意味などとは言えない局面を生きている筈だと無根拠に思ってしまうからでもある(それこそ楽天的すぎると言われるならたぶんそうなんだとも思います。だからなんだよ?)。無意味を言うひとがそこに自分勝手にそれぞれ意味を代入して使っているように、私だってそうして意味という言葉に自分勝手に肯定性を、心情を、言語化できない感触までをもかき集めて使っています。お互い様です。


 節度、誠実によって無意味としか言えない、無意味さを受け入れる、という状況があるのは私も判ると思います。誰かの死や不幸やをみだりに意味づけしない、自分好みに解釈しない態度が、反宗教のモラルを正しく開くことにもまずは同意もしながら・・・ほんとうは、というか私のうちでは、ひとが言うような「死や不幸を無意味だと受け入れる」ということを、むしろ他人とたやすく同化しえないというかぎりでの有意味によって抱えることだと思い返しています。

 だから「正当性」や「必然性」のカテゴリーについてはその通りだと思いながら、それらと同じく並べて「意味」も、とかかれることに、結局はそこに、たぶん私はいつまでも抵抗したくなるだろうと思います。今木がここでかいている「意味」も、たぶんなにかしら量化されたものであるとは思いますが。
 たとえば、誰かの不慮の死に「理由などない」と考えることと「意味などない」と考えることとはどうしても違う筈・・というところで私はこだわってしまいます。「理由」もまた、おそらく「意味」としばしば混同される概念だと思います。「死を理由づけしないこと」と「死を意味づけしないこと」とが、だから同じように聞かれてしまうときもあるのだと思います。・・・反宗教的モラルによって、「ひとの死に意味はない」と誰かが言う場合、実際には「理由はない」と言いたいのだと思っています。言い換えると「どうしてあのひとは死んだのだろう・・・」と疲れと怒りで問うことの不毛さに、「理由」と「意味」はべつべつのしかたで応じるのだと思います。
 とにかくも生きているかぎり、誰かの不慮の死さえやはりひとはなにかのかたちで意味づけしてしまうところがあると私は思います。ひとの死をある目的に至るための単なる一過程に還元しないためにみだりな意味づけを慎む、というモラル自体によって意味づけしてしまうというだけでなく、それ以前にひとは誰かの不慮の死に対してどうしても、なにか感じ、なにか思ってはしまうからでもあると思います。言葉にならないものをどうしようもなくなにか感じ、なにも考えられないままになにごとか思ってしまうことが、すでに意味づけの一端だと思います。というより、そういう風に私は有意味という言葉を握っています。しかもそんな意味づけの不可避さが、意味づけしない姿の誠実と、実は結果的に同じモラルをもたらすことがあると思います。たしかに誰かの不慮の死になにか感じ、なにか思ってしまい、意味を抱いてしまうのだとしても、その意味が他人とはけして同化しえないもの、他人と引き比べたり判り合ったりできないと感じられるもの、自分ひとりの孤絶した意味としてあるのなら、それは今木がかいてくれていることとは逆に宗教に陥らないためのモラルにもなるのではないかと思います。いつもそうだ、ではなく、そういうことだってあるんじゃないですか、と。
 整理せず、一気にこうかいてしまうと致命的に誤ったことに思えるし、事実そういう部分も多くあると思います。死をだしに使ってかくのは、自分でとても気分が悪いし。ただ私は、無意味さを徹底して自覚することだけが、意味を「だらしなく」、あるいは「すがるように」受け入れることに較べて、軽率な態度であることを避けられるのだとか正しく醒めた思考で破滅的にならずにも済むのだという結論を、必ずしも受け入れることなく考えなおしていける道があるとどこかで思い、信じてもいるし、こうしたことを強く思います。