「……経済は、けっして現在を考えることはない」(ジョルジュ・バタイユ、山本功訳「実存主義から経済の優位性へ」『ジョルジュ・バタイユ著作集 戦争/政治/実存』)。

コールバーグ=ギリガン論争に引きずられたせいもあるのか、「ケアにおけるバタイユ」という発想が浮かぶ。ほとんど自暴自棄な看護師としてのバタイユです。ただ、あまり突飛な発想でもないと思う。
「私は10あげるからあなたも10返してね」式の互酬関係は地上的で健全で(ほぼフィクションに近い)理想的なフェアネスに根差したものだけれど、そんな取引の公正性なんかどうでもよくなるときがあるでしょう。飼ってる病気のお魚や犬に手を尽くしてしまう、ただただそばで見守っていることを自分にゆるしてしまうとか、いろいろ。自分にとっての今なんて投げだすくらい大事なものへのいろいろです そうしたとき相手からの正当な見返りとか明日のことなんかひとはいちいち考えないでしょう、きっと(「星々は仕事に就かない」「太陽は返礼を求めない」)。実際には脳裏をかすめ、いやでも考えてしまうかも知れないにしても。
ところでケア論のなかででてくるこうした見返りを求めない非対称で無償な行いは、有用性とその限界の議論とどこか同じ展開が生じてくるとも思えてしまう。悪い意味でなく。それを現場に即して具体的に言うのは私もためらわれるから、ここでは「人間をすきかってに食べていた怪物が、食べなくなる話」(・・・)で置き換えることをゆるしてほしいのですが。たとえば、物語で 人間を食べなくなることで怪物の心がそれまでと違うしかたで「休まる」ことがあると思う。そうした心の休まりによって、怪物はすでに一種の返礼を自分のうちに感じてもいる。しかも人間が怪物に直接なにか返すことなしに。怪物の心に自然とそういうものが生じるように、なってる。見返りや返礼というものはそのとき、べつに求めてもいないのに勝手に自分の行いに応じてやってきてしまう、不可避の事故か出来事のステイタスに近づいて私にはみえる。それが新たな重荷に、あるいは破棄した筈の互酬関係がふと生き返った恥ずかしさのように思われるかどうかは措いても・・・やはり心は太陽や星々のようには互酬性を破棄(かく)しきれないのではないだろうか