日中、お金のことで頭がいっぱいになる。そんなことは「あってはならない」。「あってはならない、そんなこと」がこうして・・・容易に取り憑く訳だ。「死なないぞ」(大林明彦)と頭で軽はずみでなしに思うほど、あらびきソーセージパンとしての生の逆境が「教会と仕立て屋の間」で貧しくも、カラフルに/カラフルに、不味くも備給されていく。ところで今「備える」「給食」、と、かいて、つまりこのフロイト語は「ただでは」変換できないから・・・
ナツメ社の図解雑学ケインズ経済学をめくってみる。古典経済学に対してケインズ経済学では貨幣の錯覚が重要視される、と馬鹿みたいにくちでなぞってみる=「物がほしいんじゃないんだ。お金がほしい、お金の顔が、物の顔より先に見たい」。賃金で歌集を一冊買おうと思っている主体を今想定する。その際、同じく手渡されるとしても「歌集一冊の現物」と「歌集一冊が買えるだけの賃金」とをけして人間が同一視することはないのは、前者が無時間的であるのに後者は時間の経過を恃みとしているからに違いない。「お前が稼いだ賃金で買おうとしていたのはこの歌集の筈だ。では、賃金の代わりにこの歌集を直接渡してなんの問題があるだろうか」という説明に同意しうるのは、現にその歌集を手に入れてしまったあとの人間だけに決まっている。心変わりする人間は必ず時間を請う筈だからだ・・・。欲望の対象=一冊の歌集を瞬時に落手するよりも、「その気になればいつでも買える」と時間を思いのままにもてあます歓び・・・明日になれば欲しかった歌集が気まぐれのようにべつの一冊に変わるかもしれないことへの歓び・・・これが錯覚ならこの錯覚は生き生きと生きている。貨幣Xを変項の王と見るための条件には必ず時間の感覚が要るだろう・・・それは心変わりの時間、人間的な時間になっていて・・・。


「働きたくない」と「もうこれ以上働きたくない」の間に違いがあるとみなすことで自分の怨恨を自分に説明しかけていた。ほんとうはわずかでも働きたくないのに自分を殺して働いてやってるんだ(この「やってる」の対象は不明・・ということにしておこうか?)、という頑固な思い・・・要するに「これだけ私は譲歩してやってるのに」という被害者意識から私の恨みが育まれている。凡庸な、こんな怨恨のスタミナを測ってはみる訳だ。
「私をこんなに苦しめている敵がどこかにいるに違いない」「悪いのはやつらだ」というような無垢な被害者感情を真っ先に警戒しなさいと、倫理学は教えた。今日、それが舞い戻ってきている訳だ。一度幻想から醒めればそれでおしまい、というのなら事はかんたんだけどそうではなかった訳だ。知識で知っている正しい事実を、愚かな錯覚としての知覚は何度でも問いただすので(これはスピノザの悪用)。要するに、自分がそうなりたくなかった思考、軽蔑していた思考に冒されているのが判る(日中、お金のことで頭がいっぱいに・・・)。
少なくない親切で優しいひとたちが教えてくれる「支援」についてのいろいろ「有用」な情報を昔は取り集めたこともあった気がする、それらはふいに自分にどうでもよくなって忘れた。あらゆる「手続き」が心底嫌で自分の場合はやってられるとも思えないからだ。今困ってるんだからお金だしなさいな、ごちゃごちゃ言わないの、とはちらっと思うけれど、面倒でも手続きを欲している行政の気持ちも判るのでじゃあいいやとなる。とくに弁明はしない。

 ……仕事が見つからないという口実を無効にするために、航海、農業、漁業、および労働を必要とするあらゆる手工業など、すべての種類の技術を奨励する法律がなければならない。
 貧しいが肉体は頑健であるという人々の数は、たえず増加しつつある。
ホッブズ、永田道雄・上田那義訳『リヴァイアサン II』p.116、中央公論新社、2009年)

ホッブズも、数世紀後の人間をまさか笑わせようと思ってこうかいてる訳じゃないんでしょうけど。
求められているような「働けない事情」なんてないんでしょうね、ただ私は頑健なからだを持つままに働きたくないだけだよ・・・身じゅう投げだすように言っても伝わることはない。額の皮膚の支離滅裂な亀裂も、耳の裏の膿も、嘘のように晴れてきた。冬が去ったから。なんてうれしい。それだけで、けっこうだ。



「デイドリーム、鳥のように」が入っているからあの本も捨てないよ。いいものだったかはおぼえてない。
家にある数少ない元長。



小泉義之の、おそらく最良のテキストのひとつ。
「移動の自由」2008-03-24(https://web.archive.org/web/20101228224044/http://d.hatena.ne.jp/desdel/

 民衆には移動の自由がある。政治犯にも刑事犯にも移動の自由がある。病人にも感染者にも保菌者にも移動の自由がある。悪徳商人にも詐欺師にもヤク売人にもヤク中にも移動の自由がある。移動の自由は、不可侵の自然権である。国家公権よりも古き強き権利である。(……)
 九州の警官が済州島を巡回してもいいだろう。サハリンの警官が稚内を巡回してもいいだろう。沖縄の保健所が台湾を管轄してもいいだろう。中国東北部の看護師が東京を訪問看護してもいいだろう。日本の保険にアフリカの民衆が加入してもいいだろう。疾患別に世界的医療保険制度を立ち上げてもいいだろう。国境を横断して移動する自由を制限する一切の機関と制度を廃棄するだけでよい。

この意思表示にこもった核心と、きっとこの先自分が日本から外へ旅行ひとつすることなく最後までこの日本国内で死に終わるだろう確信*1とを、同時に泣きそうになるまで強く刻んで抱えて生きること。
ホテルに私も泊まってみたいと思う。ふたつ、みっつ先の県に行く電車賃をかき集めてみたいと思う(日中、お金のことで頭がいっぱいに・・・でも)。ひとの言う「安ホテル」に泊まることが私には遠大な夢に思えてならない。

*1:からすうりの花冠毟りて吐息する君と知れれど日本に死ねよ(大竹蓉子『白緑調』p.54、私家版、1974年)