継承=後遺症

冬の間、次のツイートを繰り返し参照して考えていた。

いくつか思ったことはある。また、いくつか考えなおしたこともある。・・歌人も含めて。
まず、「誰がそれを言うのか」で情勢はある程度変わるだろうと思う。くわえて「それと同じようなことが誰に対しては(奇妙にも)言われることがないのか」で情勢はまた変わるだろうと思う。「詩人や歌人ならこんな人間であってほしい」を越えて「詩人や歌人とはこういう人間だ」という硬直した決めつけはそれにつれて、無関心や軽視から、皇族視同然の礼賛(「高貴な人柄」*1)や聖別(「清潔な暮らし」)まで、それなりに広く針の揺れを示しはするのだろう。

ここで私にとって思いだされるべきは「零の遺産」(塚本邦雄)、その黒田三郎の引用周辺の箇所ではある・・・。ある時期から、ある一群の日本人男性作家が占有してきた「無頼派」イメージその粗暴な人間像をおそらくは呼び立てながら、暮らしが破綻すればするほど「文学者様」扱いの栄誉に浴する・・・というケースについて打ち据えるディスクールにはなっていた。実際、「詩人とは清貧な語り手だ」も「詩人とは粗野な生活者だ」も素朴に言われるかぎり、乱暴な聖別の裏表にすぎないだろう。
とはいえ、ここで「作者の死」(ロラン・バルト)のかつての受容と、どこか同じ構図がめぐってくるように私には見える。レクチュールにおけるその時点での君主制(=作者第一主義)の打倒を語ることが、「元君主の、人間としての生まれなおし」を赦さず、以後全面的な現実作者身分への言及そのもののタブー視(「作者の境遇や時代背景を参考にした伝記読みなどもってのほかですよ。あなた、敵?」)にまで推進されるのであれば、それもたしかに誤っている。
問題なのはだから、ひとつのイメージだけがいつでも味をしめてしまう状態にあるのではないだろうか・・・。競り合う場が骨抜きにされてしまっていることが問題なのではないだろうか。・・・・詩人の名、歌人の名において固定した「暮らし」のひとつのイメージ、「人柄」のひとつのイメージが特権的に定着し代表されていく情勢を批判することと、個々の詩人や歌人の「暮らし」や「人柄」へ私的な好悪を抱くこととは、べつの話の筈だろう。それ一色でイメージが染まってしまうことが、まずは、そしていつでも問題の筈だ。

「零の遺産」には「文学で身を滅す」という言葉が揶揄的にでてくる。この言い方には鳥肌が立つ。「文学で身を滅す」という、誰をもぞっとさせるだろう言葉は、即座にひとつのタイプの人格を脳裏にまき散らすから。酒臭い息で暴言を仲間内で吐き、近親者にあたりちらす一方で他人には不気味なほど親切で善良な、そうした人間の「きつさ」をますます輝く作品の量産によって絶えず免除させ続けていく人間・・・・。けれど、そんな固定したイメージを抱いてしまうこと自体が問題でもあるのではないかと、少し躊躇してかいてみることはできる。あえて言えば「文学で身を滅す」のに決まった道行きなどない筈だからだ・・・。「文学で身を滅す」者の「キャラ」がなにかひとつに固定される謂われは、ほんとうはないだろうからだ。
にもかかわらず、「文学で身を滅す」と言われて、誰の頭にも同じようなタイプの人間がイメージづけられてしまっていることに疑いの余地はない。その状況のほうが、「文学で身を滅す」という言葉のむきだしの含意自体より実はおかしいのだと、ぞっとすることに変わりはないながらも、思うことがある・・・。命がけの訴えを行う者、パレーシア(ミシェル・フーコー)に身を投じる者を現在最もよく体現する具体例として、ネオナチスキンズやオルタナ右翼が「真っ先に」挙がってしまう、しかも強い説得性をもって挙げられてしまうという今の事態がすでにどこかおかしいことであるように。挙げられること自体が問題なのではなく、そう言われて真っ先に思いつくのがそれらの人間だという、その「真っ先に」という第一のイメージの素早さ、根強さがほとんど問題であるように。

*1:ところで天皇、皇族を、なによりまず明白な人権無視を今なお受け続けているひとりの人間と見ることから始めないおしゃべりはみな狂っていると思う。どうだろうか・・・。生まれる前から生活をずたずたに毀損され続ける一生もののオペレーションによって虐待を約束されたひとりの人間が今もいると見るところから少なくとも始めないのなら、どんな批判も、どんな礼賛も、みな狂っていると私には思えてならない。