千のセメントになって

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「セメント樽の中の手紙」(葉山嘉樹)は、小学校の教科書で私も読んだと思う。
そして、それについてこう言ってみたい気がする、モーリス・ブランショが日本の教科書に載ってなくとも葉山嘉樹は載っている・・・と。私は、このプロレタリア小説の掌編は、まさに「ブランショの小説のように」読まれていいと思う。それがたぶん、作品をあまりよくない意味で「痩せさせる」読み方になるのは判った上で、そう思う。
入沢康夫がかつて「エコーあってのナルシス」で披露してみせたようなしかたを踏襲すれば、

・主人公の松戸与三は労働者でセメント作業に従事している。セメントが鼻の下にこびりつくけれども、忙しく、「とても指を鼻の穴に持って行く間はなかった」
・セメントはよけられず、飛沫をいつしか浴びてしまうもの。かきまわされ流されつつ、凝り固まるもの。運ばれ、買われ、あちこちの土地で使われ、捨てられ、年数を保ちながら壊れていくもの。「彼の鼻は石膏細工の鼻のように硬化したようだった」
・「手紙」には少なくとも三重のハードルがある(「セメントの樽から小さな木の箱が出た」「彼が拾った小箱の中からは、ボロに包んだ紙切れが出た」──樽、木箱、ボロ)。「木箱」は容易なことでは開かない。「彼は石の上へ箱を打っ付けた」しかし、「壊われなかった」ので「此の世の中でも踏みつぶす気になって、自棄に踏みつけた」
・「セメント」と「手紙」、声の経験をめぐるふたつのバリアント。「あの人は西へも東へも、遠くにも近くにも葬られているのですもの」
・「水の中へ溺れるように、石の下へ私の恋人は沈んで行きました」「鋼鉄の弾丸と一緒になって」「はげしい音に呪の声を叫びながら」・・・(ブランショオルフェウス的に読んでしまうと、ここはむしろよくない意味で痩せさせてしまうだろう箇所、受けとめるべき衝撃を悪曲りさせてしまうだろう箇所ではある)
・男の視線の野蛮さ、男の物思いの身勝手さには「数」が呼応している。「ウヨウヨしている子供のこと」「滅茶苦茶に産む嬶」「一円九十銭の日当」・・・。男にとって数を通して疲れや諦めや欲望にふれることが癖になっている。その上で、野蛮で身勝手な「彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た」
・読むという経験の終わり(途切れ?)。手紙の声が沈黙することは、ほかの声が再開することによってふと気づかれる。その切れ目を測ることはできない。「松戸与三は、湧きかえるような、子供たちの騒ぎを身の廻りに覚えた」
・読む者の応答責任について。あなたが「同胞」(誰と?)かどうか。同じ側(誰と?)かどうか。書き手の期待、書き手が暗に見込んでいる読み手のステイタス。「あなたは労働者ですか」「あなたは左官屋さんですか、それとも建築屋さんですか」「あなたが、若し労働者だったら、私にお返事下さいね」
・「私の恋人の着ていた仕事着の裂」には「石の粉と、あの人の汗」とが染み込んでいる。それでもって、自分の「手紙」を包むということ。その手紙はまた「恋人」のセメントを収めた樽に入っているということ。ところで「汗」は、それがまだ乾いていない場合、一般的には文字をかすませ、薄めるだろう。あるいは文字を濡らすことで微妙にも広げ、やぶりやすくするだろう