歌のネグリチュード、短歌のノン・ネグリチュード

 「詩的だね。」と思いきって言った。
 「それは、」と間木は横を向いたまま応えた。「絵を悪く言うときに使う言葉だ。」
 (安部公房「水中都市」p.249、『水中都市・デンドロカカリヤ』、新潮文庫、新潮社、1973年)

 詩は、人間が言葉に臨んで執り行うひとつのジャンル:書記域である一方で、明らかにポジティブな価値語としての側面、「勲章」としての側面をも持っている(「これはもはや芸術だ」=「これこそが詩だ」、とうとう)*1
 ところで日本では散文詩、自由詩、現代詩と、直接「詩」という綴りをその領域名に刻まれ抱えこんだ書記域がある。そして散文詩、自由詩、現代詩のことはふつう、端的に「詩」と呼ばれてある筈だ。それはいい。しかし、ジャンル名としての「詩」が勲章語としての「詩」と曖昧にかき混ぜられるようにして、たしかに深く隣接するジャンル:短歌や俳句や川柳に分け与えられるような構図を見せるときがある。「詩」は、あるときには隣接ジャンルと同じオブジェクトの一員として言及を受ける一方で、またあるときには「詩」という文字を保持したままメタレベルからほかのジャンルを積極的に評価する位置に行く(あの「詩的」という言葉!)。
 このとき、「詩」という用語は厳しく刈り込まれた普遍性の輪郭を証すと同時に、美味しいところをさらっていく、ずるい視線に見えてくる(……)。このとき、隣接ジャンルというよしみ?で短歌、俳句、川柳をも穏やかな党派性を示しながら「詩として」囲いこんだり(領土化)、あるいはそれぞれのジャンルごとの営為やその歴史やずたずたな固有性などをいったんは承認したあとでやはり「詩として」称賛したり(再領土化)すること、端的に言って「広い意味ではどれも詩じゃないか」というディスクールとは、「詩」にはとても任せられないことをするべく四方を削っている者たちからは、ずるい視線に見えてくる(……)。もちろん「短詩型」という言葉を私も忘れた訳ではない。けれど、どちらかというとそれは、短歌・俳句・川柳という大文字の呼び名の下に内包として補助的にかきこまれてきたものだと思う。散文詩、自由詩、現代詩にとっての「詩」の位置はそうではない。要するに「詩」という分厚い手が最後にはいつでも賭場の卓の上のコインを総取りしていくような風景……そう感じてしまうのはある部分アレルギー、ある部分コンプレックスに裏打ちされている、と誰かは診断をくだすだろう。それに詩の側にはべつの言い分がある筈だ。私も、攻撃的に構えてみせたいのではない……。私はたぶん、致命的に間違えて「入場」してきている。それでも、隣り合っているからといって、いや隣り合っているのだろうからこそ、そうはたやすく同化させられないために、つまり「詩」と一言では絶対に呼ばせないために、少なくとも一息で「詩」と呼ばせることには躊躇いを与えるために、もしかしたら外からは意固地と変わるところがないのかも知れない矜持が積まれてきたのではなかっただろうか。

 たとえば「詩の哲学入門」(ナンバユウキ、http://lichtung.hatenablog.com/entry/introductioin.to.a.philosophy.of.poetry.lichtung)を読み、その「方向性」を応援してみたい気持ちもある。また、この文が軽い気持ちでかかれたものではけしてないことも伝わりながら……やはり笹井宏之という名に向けて「詩人」「詩作」「詩」という用語がことさら二重三重にかきこまれていくのを、疲れた、暗い気持ちで見つめてしまうのもたしかだ。それに、はるな檸檬「えーえん書く力をください」(『ちくま』2019年2月号)のような文を読んでしまうと、自分の声がどんどん弱く縮んでいく。自分がさもしく、せせこましく思えてくる。

「主人公の女の子が詩を書くに至る話を書こうと決めて、さて彼女が初めて触れる詩集は何にしようかと考えあぐねた」
「ずっと頭の片隅でこの『えーえんとくちから』のことを考えていた」
「詩集が良いのだけれど、これは厳密には短歌集だから違うし……などと考えながら」
「詩を知らなかった女の子が生まれて初めて触れて、鮮烈な感動を覚えて、胸を打たれて、絶望の中でも生きる力を得られるような(……)本は、これしかないと思ったのだ」
「結局、私は作中で書名を出さず、また、この本にある笹井宏之さんの言葉『短歌というみじかい詩を書いています』という言葉に支えられるように、『これは、大きな意味で詩集です』という気持ちで、主人公が初めて出会う初めての詩集としてこの本を漫画に描いた」

 すごい電圧で自分が倒れるようなものに会えた子が、その子が知っている知識からありったけの褒め言葉をかき集めて詩という一語に託すことの、どこが非難されなくてはいけないというのだろう。そんなときにその作品のジャンルが正しくないとか問題だとか……大したものじゃないのは明らかだ、と私もほとんど思う。いや事実、思う、と言ってみたい。それでも………………短歌が詩として見つめられることへ、単一で不動の対応をとりえない自分という解決のなさをまだ見捨てないでいよう。これは芸術カテゴリー版の「差異か、平等か」……? フランツ・ファノンの今も震えすぎて回りえない舌の言葉をいったい、どこまで推し進めれば「詩になりたい(白人に憧れるから?)」からも、「短歌でありたい(白人にはなれないから?)」からも自由に………それを「無意識下の同化願望」とも、「憧れの挫折に基づくナショナリズム」とも見なされることなく、爽やかにもかいくぐっていけるのだろう、しかも各書記域を不可侵のものとするのでもなしに、退屈さとは正反対の方角が望むほど現れでるかのように。

*1:命題における「真」「偽」という用語が、それ自体は特定の価値判断にはタッチしないように扱われていながらも、「善い、真実、本当」「悪い、間違い、嘘」のニュアンスを抱えこんだ価値語と同じ綴りであることでもって、どうしてもひとにしかじかの情動を交えて聞こえさせるように。https://twitter.com/hitoshinagai1/status/830232167946936321