群衆のなかで自分の孤独をたしかめること──いかに使い古された比喩だろうと、ひとりにおいてかくことの高貴は相変わらずそこに宿るのに違いない。
SNSTwitterをそういう意味で高貴に使っているひとがたしかにいるし(高貴じゃないひとはよくないという意味ではないです)、そこから照らし返してみれば、私が今もいるこの日記は見かけこそ孤立感があっても、その質は「卑しい、臭い孤独」の相貌を帯びているように感じられてくる。群衆のなかでの書き手に較べれば、私は単にひとがいない場所を選んでかきにきているだけ・・・? 敬愛すべき正岡豊の、「ある程度以上の孤独感というのはやっぱりマイナスなわけですよ。」(https://twitter.com/haikuzara/status/1102488725508878337)という物言いには正直かちんとくるけれど、それは自分の痛いところをきれいに突かれたからでもあるかも知れない。「群衆」の息遣いに囲まれることは、ひとりでかくということの孤独感を臭みや卑しさに簡単に順接しないために大切であるのかも知れないと素直に思う。「どうしてまだかくの?」。じくっと痛む声を胸にあててみる。でもめげない。めげてもめげない、という思いによって白ウサギを湯上りのタオルでぴっ、と編むことを想像しながら。

ほんとうに、読み返されるに足る文を今までどれだけかけたのだろうと思うと心許ないのですが。他人を自分の文につきあわせる権利、の端っこさえ見えないのに。