万引きの夜のことをまだ忘れられないのなら

読者を不安がらせたいのでないけれど、私の不安を少しあずけてみたい。いったい、ひとは、「vtuber業界全体のイメージ」などという切り口から本気でなにごとかをかきだしていくことができるのだろうか? そんな切り口から始めようとする書き手の思いなど私はこれからも理解したくないだろう。にもかかわらず、一介のアナリストのつもりなのかどうか、そうした観点があるひとびとにとっては自恃となるようだ。幼稚な精神薄弱者のブームに冷や水を浴びせる大人の知性を、という訳だ。まあ俺もうるさく言いたくないし迷惑かけないうちは生暖かく見守ろう、という訳だ(「生暖かく見守る」などという倒錯的なスラングを平然と口にできたひとびとが私にはおそろしい)。「車ン中で熱射病で死んだ幼児らにもパチスロさせれ/アリスもパチスロに行け」(松本圭二「ハリー・ボッターと二つのエレジー」)と言うほどのズズっ黒い情熱や祈りをそうしたひとの耳の穴に覗きに行っても、無駄ではあるのだろう。
しかし、もういいだろう。「まず愛すること」からかきだされない言葉の群れにひとはこれ以上つきあうべきではない。否認や危惧をおもちゃのように振り回しておいて、最後におずおずと好意めいたものを見せ消ちに筆を置くような破廉恥を読んでいる時間の余裕などないのだから。


「いい書き手」はすでに私の前にも現れてきている。この言葉が傲慢に響くのは承知の上だ。貧相な非力な自分自身の思考に飽き果てていた私だからこそ、待ち望んでいた他人の言葉がほんとうに現れたことに対してこう言い放つ権利がある(おまえ誰だ?)。それに見合うだけのぶつけられる言葉を今、私も必死で練り上げている・・。
次の記事は去年見つけたものだ。

・「メモ:「借りてきたX」構文?(Vtuberを例に)」(「しゆろぐ」、2018年。http://rrr-lang.hatenablog.com/entry/2018/11/07/203956

単発記事なのが惜しまれるものの、配信者たちの言語観や文法論に聞き耳をすましたこのような記事が多くの書き手によって今後少しづつ積まれていくことも、十分期待できる。こうした修辞学上の研究は重箱の隅を突くのとは違い、配信者たちの未来の質を言葉の側面からいつか語りあかしてくれるべきものだ。このようにも配信者たちの言葉を拾い聴いてゆくためにまず、愛すること。
ミライアカリと猫宮ひなたのホテルのベッドトーク*1のすばらしさについて──聴いていてうれしくなる──いつか私もかきだそうと思っていくだろう。マライア・キャリーとミライアカリさえ取り違えられるほどの夜間には、きっとすべてのことが可能になる。夜は不意の襲来となってそこに、だけれども無主体とはけして言いえない、「誰かはいる」という事件の名のもとへひとりひとりの視聴者を近づけさせる。

*1:Mirai Akari Project「なんか配信されてない!?~海外旅行編~ラジオ」、2019年。https://youtu.be/B5dr8l81ebo