なとりの絵にあなたがいない──不在判決でも有在判決でもなく

 「アンソロジーを編む」という行為一般の急所として、編者自身が実作者である場合、自分の作品にどう対応してみせるのかというのがある。ほかでもない自分自身の作品をもアンソロジーのなかにひとつの糧として収録するのか、しないのか……という手つきはその者の生のありかたを、どうしたって反照させずにはいられないと私には思われる。遠慮によって自分の歌を入れる/入れない。あるいは、気遣い、誇示、勇気、問いかけ、忘却、忘却のふり、挑発、考えなし、おそれ、美意識……とうとうによって。もちろん編者を複数用意するという「世俗的な」解決はある。さらには『現代の短歌』(高野公彦編)のように、死んだ歌人の作品については編者がひとりで選び、生きている歌人の作品についてはそれぞれの自選に恃む、というより複雑な編みの背景をもったアンソロジーもあるだろう。それゆえ、どれが正しい筈もないけれど、私は、どうしても編者がひとりだけで作成にあたったアンソロジーに惹かれる。歌人が作成した短歌botに、その歌人自身の歌がでてくるかどうかというのは、相変わらずひとつの急所、ゆえにひとつの試金石として私にはある(そしてもうひとつは「和歌」の収録の有無)。
 こう言うべきだろうか、編者自身の歌がそこにいることも、いないことも、同じだけ切ない、というときがある、と。


 vtuberが絵を描くことも、自分自身の絵/モデルを描くことも、おかしなことではない。ゲーム実況や通常の雑談枠とはまた一味違う、お絵かき中の談話の質*1については、稿をあらためて見つめ、かいてみる必要もあるにせよ。

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宇志海いちご「よ!~えでもかこうぜ~」、2019年。https://youtu.be/svGACqJpI58

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轟京子「【轟京子】3Dお絵かき配信【虹種の彫刻師】」、2018年。https://youtu.be/vbVvgsAt0IY

 けれど、あるアイドルグループに所属しているひとりの配信者が「自分たち」の集合絵を描くとき、冒頭にした話の難点がよみがえってくる。描き手自身、自分自身というステイタスがそこでは、私には一種の甘い痛みめいた切迫感をもって感じられるときがある。
 「自分たち」の集合絵のなかに、その絵を描いている配信者自身がどうにも見当たらない。これは、グループ論の急所だろうか? よゆうポコパンツ!と誰かは言ってくれているようだ。その声に躊躇しつつ……それでも、そこにあなたがいないのはさびしいと言い捨ててしまうことも、なにか違うようだ。どうしてだろう。

 八重沢なとりの集合絵をこうしてここで正しく紹介することができるだろう。一年前のアイドル部全員の絵と、一年後のそれ──すなわち伝聞と外見に多くを依って未来への期待のイメジャリーを引きだしながらおっかなびっくり描かざるをえなかっただろう最初期の絵と、時間がもはや敵ではなくなってイメージを引きだすまでもなくかえって次々に押し寄せてくる思いを反映した現在時の絵とを前に、多くを語ろうとは思わない(べつに私、プロではないしさ)。
 「画像は、自然言語と違い、過去や未来といった時制を直接表現することはできない」という常識がもし正しいのなら、この二枚の絵のうちに慌ただしくも夢中になった一年という経過をどうやら認めることができてしまう「人間という理由」として、私も……なとりの絵を見つめてはいる。この一年後の絵があらためて愛しく数え上げてくれるもの。リコピンとあずきちというアイドル部スタート時には意外に思われた対にくぐられてきたくすぐったい思い、すずの何枚割られたか判らない眼鏡の耐久性が証し立てる思い、いつしか組み替えられてしまったばあちゃるに対する視線の変容史、さらに虫属性で異端というたしかに当初は軽率だったのかも知れないつながりで隣に並べられた筈のあずきちとピノちゃんではあずきちが先に眠りこんでしまえることや、ピノちゃんとちえりの目配せの意味、それから、それから……そうしたものたちを口のなかに押しこめて。佐藤ホームズが以前、的確に指摘してみせたように*2、アイドル部の生配信に対してほかの部員はチャットではなくTwitterから見守ってきた、そうした独特な見守りかたをも、このなとりの絵はたしかに含みこんであると思う。
 集合絵のなかになとり自身がいないことは、配信時にはあまりに気に留めなかったように思いだす。デビューしたばかりの仲間をこれだけ「描ける」ひとが現れた、という賑やかさの海で疑念や不安は波立つことがなかったようだ。なにより「私から見たみなさん(=私以外のアイドル部員+2名)」という人物選択の動機づけもあったし、本人が2Dモデルとして画面に常在していたためもある。でも……。

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八重沢なとり「【どっとライブ】【アイドル部】八重沢なとり【はじめての生放送】」、2018年。https://youtu.be/wt7vNqjW1GY

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同上

 vtuberの配信についてこうしたことは言われつくされているのかも知れないけれども、配信画面とは、配信者自身の眼差しをあらかじめ巻きこむように視聴者に差しだされている場のことのようだ。絵/モデルとして立ち現われる配信者の視線はそのまま伸ばせば画面の前のこちらの視線とぶつかる対面的なものとしてまずはありながら、一方で配信者は視聴者同様、自分自身がまさに立ち現われている「この画面」をも見つめている。それゆえ配信者の眼差しとは「視聴者を見つめる視線」と「視聴者が見つめる視線」とが、愚直にも一致してしまう場所を垣間見せるような眼差しなのだと言えるだろうか。もちろんこれは想像的な視線とパソコンを操る配信者の視線とのレベル間の違いをあえて混ぜこぜにすることで、初めて可能になるような偽装的な眼差し、言うなれば理論的フィクションとしての視野状態ではあるのだろう。それに実際、こうして言葉にしてみると難問のようにみえるものも、配信を見ている最中はつねにすでに問題ごと解消してしまっているようだ。では、これは、「あの実感」をまた、すりぬけていくだけの……? それでも、「この画面」を見つつ、それを見ているこちらをも見ている、という配信者を通じた出来事がいつでもあっけなく成立していくような場所として配信を思ってみることも、禁じられているとは思えない。
 なとり自身が、イラストとして集合絵のなかにいない。それは一年後も相変わらずたしかなことなのかも知れない。しかし、それを、さびしい、という風にはもうあまり私には思えなくなりつつあるだろう。なとりの絵を見ることと、なとりがそこにいると感じることや、なとりにふれるような思いをすることとの区別がつかないから、という言い方はまだとらないでおく。だから、自分の描いた集合絵を視聴者とともに見つめる「なとりの想像的な眼差し」は、なとりがいない集合絵の穴を埋め合わせるものだ、とすらここでは言わないでおく(本人の姿が描きこまれていないことを、やはりなんらかの意味で「空白」や「欠如」なのだと考えることをもし、きっぱりとやめてみるならば)。
 それでも、一年後につけくわえられたものをひとは拾ってしまうだろう。集合絵の右下の位置はかつてもこ田めめめが占めていた。一年後の現在、めめめは中央にすべりこみ、かわってべつのものが右下にいるのをひとは見つける。それはなにも視線の結節点などという大仰なものではなく、ただの──伝言を結わえつけられた使い魔、という形象の懐かしさ。それは「洞窟物語」の実況中、キングのブレードLv.3にはらはらさせるほど絶句してしまったあのひとの*3、そしてまた、

 グーチョキパーでなにつくろう~♪
 ・・・・なにつくるの?
 グー?
 私、タレット。

 という発想の落差に虚を突かれたような笑いが私のなかでいつまでもこみあげてくるようなあのひとの*4


 そういえばアンドレ・ブルトンは「神秘対不可思議(Le Merveilleux contre le mystère)」という奇妙な題のエッセイをかいたことがある。ブルトンにしばしば見られるやり方だ。一見、類義語にとれそうな言葉の間に対立関係を打ち立てて、ひとを思わずも躓かせる。ここでは(象徴主義由来の、技法や鍛錬と強く結びつけられた)「神秘」と(裏打ちなく、裸の素手でこうむるほかない人間の経験としての)「不可思議」とが、そして『狂気の愛』では「いつまでも」と「長く」という言葉が対立させられていた。

 んはのうごはきます(八重沢なとり、2018年10月4日)
 https://twitter.com/yaezawanatori/status/1047960257853456384

 ひなようございたふ(八重沢なとり、2018年10月10日)
 https://twitter.com/yaezawanatori/status/1050147379955953664

 んはろうのざいます(八重沢なとり、2018年10月23日)
 https://twitter.com/YaezawaNatori/status/1054845019549401088

 毎日の挨拶ツイートを不可思議の側によりわけるのは誰? それは私ではないとしても、いくつかの、いくにんかの言葉はそこでたゆたっている。なとりのあやふやな挨拶の形態学のうちで目覚ましのアラーム音は、これから鳴るべきかもう鳴り終えたのか決めきれないまま己を見失っていく。ところでスヌーズという機能こそ悪行ではないだろうか? あるいは、一度眠り、さらに眠るための逆立ちしたスヌーズを考えたことはないだろうか? 「夢で何かを考えるということは、必然的にそれを実行することなのである」*5。なとりが絵を描く。その絵のうちで夢のように、なにかを考えてしまったのは誰?

*1:総じて、なにか作業をしながらおしゃべりするという姿には注意深くなる必要がある。ゲーム実況、雑談枠、企画、そしてお絵かきや3Dモデリング作業といった配信状態を規定するさまざまなシチュエーションを、配信者たちの言葉の質とは最後まで無関係に浮遊している構造にすぎないと考えることを一度、諦めてみよう。そしてシュルレアリストたちとともにこう受けとめなおしてみよう。ゲーム実況も、雑談枠も、お絵かき配信も、配信者の言葉の出所に深く食いこんで、ある瞬間ふと「違うように」話してみることを誘うものなのだと。配信者の談話のありかたに直接影響を与えることが期待される、いわばひとりひとりの「話す生」に対し取りついたパラメーターなのだ、と。だから各シチュエーションはそれ自体でなにか良し悪しを主張できるものではないし、重要なのはあくまでそうしたパラメーターを配信者が選びとることによって「どんなおしゃべりが現に可能になっているか」、ではないだろうか。ゲーム実況の下でこそ初めてこんな風に言葉を放つことが可能になることもあれば、お絵かき中だからこそあのエピソードを初めてこうして語ることができたりもする……。もちろんそこで出現するのはひとを明るませる談話ばかりではない。たとえば、轟京子(「轟京子、お絵かきするってよ」、2018年。https://youtu.be/cZ_6iqhzSBg)の談話に現れる「メンヘラジャイアン」のエピソードは、ひとを怖気づかせるものだ(素朴道徳的にも、社会通念的にも)。そこでひとびとは「いや…面白いじゃ済まないでしょそれ」「立派な犯罪じゃん」と言う権利を持つことができさえする。多少口の悪いひとであれば「躾けのなってないオスガキだこと。殺せ!」と頭のなかで銃声を連打するかも知れない。私もメンジーと呼ばれる人物の造型はひどいものだと思う……。しかも、しかし。と、どうしてもここで言い添えておかなければいけない。しかし、そのような告発の姿勢によって聴取する者には、京子自身のあの笑みをたたえた語り口の意味についてはなにもふれることができない。メンジーの素行がどうあれ、そのような人物について京子はあのようにも快活に語り明かすことができたのであって、少なくとも配信者の談話の帯びるこうした熱烈の意味に対して告発的な構えで聞くのでは、結局、むなしくも素通りするほかないに違いない。

*2:SatouHolmes Ch.佐藤ホームズ「アイドル部の「箱推させ力」の話をしよう【佐藤ホームズの考察】」、2018年。https://youtu.be/sEMO22CztEU

*3:八重沢なとり「【どっとライブ】自分をさがす旅 洞窟物語 #6【アイドル部】」、2018年。https://youtu.be/hzrygFtCRpc

*4:八重沢なとり「【Overwatch PS4版】ハロウィンイベント!!ジャンケンシュタインの復讐!!【アイドル部】」、2018年。https://youtu.be/6ZACSXBan5Y

*5:立木鷹志訳、エルヴェ・ド・サン=ドニ『夢の操縦法』p.343、国書刊行会、2012年