資金があればまた違ったろうね、いろいろ とはもちろん思うけれども。
でももうそれはいい。
それより、

たとえば志路遺耕治の、たしかに褒められたものではないだろうやけくそな一夜のマラソン=詩作が「60年代詩」という暑苦しく、暗く、あんまりにもあんまりなツテなしには今、新しい読み手の前に出てこられないほど史的に圧殺されてあるように、「塚本」や「葛原」、「須永」のツテなしには邂逅できない陥没地帯に押しこめられてしまったような歌人、歌集があるように私は受けとっている。そうした歌人、歌集について掘り起こすのはそれがどれほど優れた、あるいはその傷つきかたにおいて激しく美しかったものであっても・・・あるいはそうであるからこそ、マイナーの、ネクロの、みだらな「墓暴き」と変わりないように映る側面は間違いなくあると思う。死んだあとに遅れて称えにくる者こそ、真っ先に死んだやつから怒鳴られるべきだ。作者が死んだあとも言葉は歌は残るだとか、時間を越えて作品は届くとかの真っ当で透徹したモラルなんかでは、とてもとても清算しえない怒りを感じる。私を「再評価」するな、「発見」などもっとするな、みな生きてるうちに言えよな!という・・・そう感じないだろうか。
だからこれは善いことではありえない。薄汚い墓暴きのそんな手を自分に指名した上でそれでも、まみれた言葉を今少しづつかき集めている。まだ今は。でも今少しづつ・・・。自分のため。


ただ天へ 白きリボンの夏帽も黄金覆盆子のききわけなさも/高橋正子『紡車』 ※天(そら)、黄金覆盆子(こがねいちご)